数年前、母の遺品整理をしていた時のことです。古いアルバムが出てきました。長崎の純心高等女學校の卒業アルバムでした。戦時中とは思えない立派なもので、表紙に2602という数字が刻まれていました。「“2602”ってなんやろか」と長崎弁で話している妹たち。年配の方はおわかりでしょうが、皇紀、即ち神武天皇即位の年から数えて2602年が昭和17年というわけです。アルバムを開くと、最初に奉安殿の写真があり、その下に初代校長シスター江角ヤスの若かりし頃の凛々しい写真が載っています。後ろの頁には、昭和16年12月26日 長崎要塞司令部検閲済という印があります。カトリックの学校でも西暦が使えない軍事色の強い当時の事情が偲ばれるものでした。

先週月曜日に、新元号「令和」が発表になりました。7世紀の「大化」から248番目の元号。「初の国書典拠、万葉集から」という見出し。現存する最古の和歌集の巻五 梅花歌32首“発春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香”から採ったもので、<中国の古典を出典とする過去の伝統を打ち破った>と説明されていました。しかし、その後、漢学者の間や中国の報道では、「令」「和」は後漢の漢詩などによく使われており、「万葉集も中国の古典文化の影響を拭い去ることはできなかった」との解説もありました。

ところで、今回、新元号の発表者は誰かも関心の一つでした。安倍首相自ら発表するのではという臆測もなされていました。

実は、昭和から平成に移るときの隠れたエピソードがあります。新元号を発表するのは誰にするかという問題が起こったとき、時の官房長官であった小渕恵三が政府のスポークスマンである自分の仕事と進言。結果的に“時の人”になり、<平成おじさん>として全国の老若男女に知られる存在になったのです。当時の総理大臣は竹下登。竹下首相の生き方の姿勢として知られているのは「汗は自分でかきましょう。手柄は人にあげましょう。そして、その場で忘れましょう」というものでした。竹下語録の一つとして、よく知られている言葉です。新元号発表という晴れ舞台を譲った竹下首相らしい人柄が偲ばれるエピソードを思い出します。

主任司祭 松尾 貢

LINEで送る