「するとイエスは、はらわたがちぎれる想いに駆られ、その手を伸ばして彼に触り、……」(マルコ1・41)。
二千年前のイエスは出会う相手に対して神の愛情を分かち合って旅をつづけました。そのイエスの激しい感受性に関する記述が新約聖書文書の至るところに記録されています。「はらわたがちぎれる想いに駆られるイエス」。――まさに、そこにこそイエスの生き方の真髄が存しています。
信仰とは、イエスを「はらわたのちぎれる想いに駆られた神の愛を体現した姿」として理解し、その同じ感触を私たちにもつかませるべく迫るものです。
誰もが感じることだと思いますが、「はらわたが収縮するほどの愛情」が厳然として在ります。それは「はらわた的な愛」と言うことができます。あるいは、「内臓感覚的な愛情」とも呼べるでしょう。たとえば、大事な子供を愛おしく感じるときに、親は「内臓がギュッとしめつけられる感触」を実感します。恋人同士の関わりを思い浮かべてもわかると思いますが、大切な相手のそばに寄り添うとき、「からだの奥底から何だかしみじみとした愛情の迫り」をひしひしと実感したことが皆さんにもあるかもしれません。
相手を受け容れて、ともに生きようとすると必ず沸きあがってくる「はらわたのゆれうごき」。人間の内臓の奥からこみあげてくる愛情のうながしが、目の前の相手に向かう気力を生じさせます。思わず、相手に馳せ寄り、助けてしまうときに、そこに聖霊の働きが脈動しています。しかし、あくまでも、無心になっている状態、何の打算もない状態の場合だけですけれども。
神のみ旨を生きる人間の尊いわざは「はらわたがちぎれる想いに駆られること」なのです。神の愛にうながされて生きる人間が真の人間です。愛情が脈動していること。それが人間を真に活かし、人間たらしめ、学問を真正なものとするのです。神と人間との協働関係が、そこにおいて成り立っている場としての聖霊の働き。聖霊の働きにうながされた愛情のふるまいを実感できるかどうか、私たちには問われています。
「内臓感覚としてのいつくしみの念」を、今こそ、見直すことが大切でしょう。キリスト教信仰が目指している究極目的は、「内臓感覚としてのいつくしみの念」つまり「神からつつみこまれて、ゆるされて、安心している状態」を実感してゆくこと、そして周囲の人びとにも同じ感触を伝えてゆくことです。
協力司祭 阿部仲麻呂