アイキャッチ用 長澤神父の今週の糧

​新型コロナウイルスの中で

パリの補佐司教フィリップ・マルセは、ノートルダム大聖堂の焼失に加えて、新型コロナウイルスの窮状にあって、信徒の間の繋がりを、また弱い立場にある人びととの連帯感をどのように維持したら良いのかと問いかけております。さらに、この試練の中、神への実存的な問いかけにも触れております。私たちにも示唆に富むメッセージと思い、あらすじをここに紹介します。

今年は、パリ教区にとって二重苦の一年となりました。私たちの教区はカテドラルを焼失い、また新型コロナウイルス感染予防のため、信徒のいない感謝の祭儀を行わなければならない状況です。大聖堂の屋根は焼け落ち、一晩中燃えていました。空に輝いていた十字架も焼けてしまいました。

「何故こんな試練を?」と私に問いかけた人もおりますが、もしもこの火災を神が許されたのならば、私たちの理解を超えた何かがあると返事するほかありません。私どもが信じている神は、不幸や不運の中にも、また反対に幸運の中にも現存しておられるのです。特に、想定外の出来事の中にも。神は、不幸や試練において席を外すことはありません。常に私たちと共に。たとえ私たちがその場におらずとも神はおられます。とまれ、この大きな火災と新型コロナウイルスの試練にあって、神に謙虚に頭を下げる機会ともなればと思います。

新型コロナウイルスは見えないことから、不安の種をまき散らします。今日でも、軽く見たり、無視することはできません。リアルで大きな被害を与えずにはおかないからです。時には死をもたらすこともあるでしょう。それも感染が感知しないまま。さながら自分と周囲の人びとに実害をもたらす悪業か罪悪に似ております。

この極小ウイルスは、地球上に住む私たち人類に生命の起源を考える機会となりましょう。ウイルスには国境がありません。その伝達(感染の)の媒介となるものは、人間の身体、私たちの唾液、私たちの気の緩み以外にないのです。

さらに、ウイルスは、私たちの身体性に深く関わります。ですから私たちがお互いに繋がっており、その結果私たちの連帯責任にも言及すると言えましょう。連帯感そのものにも問いかけておるので、まず第一に、私たちの生活のあり方、私たちの身の振り方について考えなければなりません。どのように毎日を送っているのでしょうか? いかに自分自身と周囲の人びとを守ることに留意しているでしょうか。

神は、積極的に不幸を送ったりしません。しかし、神は、私たちに問いかけをしております。「自分にはあまり関係がないとか、あるいはそれを防ぐことに真剣にならないのか」と。 この質問に調子の良い時もスランプの時も答えるのは自分です。それもイエス・キリストの前で。

キリストは受難にあって不正の悪にも逆らわず、終始、信仰人、逆境の中でも愛と希望の人であり続けました。自分のことを気にかけず、母マリアに話しかけ、盗賊に楽園を保証し、弟子を呼び寄せたのです。イエス・キリストは、受難の意味を不満気に探さなかった。この受難は、「神学的に何の意味があるのか」、「自分になぜこんなこと?」といった不平を言わず、かえって受難に、愛と赦しと奉仕、人の救いという意味を与えました。新型コロナウィルスの試練は私どもに、自分の人生について、さらに自分の生命についての問いかけの一つの機会でありましょう。

司祭たちは一人でミサ聖祭を捧げております。がしかし、信徒たちの意向を祭壇に運んでいることでしょう。私たち司祭はこの目に見えるミサ聖祭の単なる管理者ではありません。イエス・キリスト自身が、今現在私たちに見える形で現存化することをミサ聖祭でおこなっております。秘跡の形で。

感謝の祭儀は、私たちを復活したイエスへの信仰の世界に導きます。けれども信仰は、今日も人間の力量不足という試練にさらされております。しかし信仰は試練の中にも恐れを追い出す愛となりましょう。また病人を見舞う憐みともなります。それに絶えざる祈りに繋がります。私たちが背負う十字架は、隣人愛に生きる横の軸と全ての生命の源である縦の軸でできておるのです。

主任司祭 長澤幸男

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