チプリア二司教は、「私たちの父よ」という表題に「一緒に心を合わせ、声を合わせて祈ることがどんない大事であるかを述べている」。ハッと驚いた。

普通、「○○さんのために祈ります」や「○○さんの病気の回復のために祈ります」と約束したり、あるいは、自分自身の病気回復のためとか就職のために祈ることはよくある。しかし、皆が心を合わせ、一緒に祈ることはあまり見かけたことはない。せいぜい一緒にロザリオを唱えるぐらいである。「感謝の祭儀」の時もあまり共に祈る体験は希薄である。今一つ連帯感を感知しない。キリストが、教会では見えない、あるいは教会がキリストを見えなくさせていると指摘する極論も見かける。

教会には決まり事や、人間関係が存在する。そして司祭は、信徒の生活を良いほうへ変えてやろう」と考え、信徒は「今日はどういう教えをいただこう」と考える。聖書や要理を「学び」「生活を改善するために勉強する」しかし、礼拝になると、そこからはキリストに向かうスピリチュアリティーは消えてしまっているのではないか?

複雑な現代社会にあって多くの信徒は、知的に問題を解決することよりも、むしろ共同体の醸し出す連帯感の中でスピリチュアリティーを感じ、キリストに向かい、安心して祈ることを求めているのではないか? 現代の教会の限界と疑問が見えてくる。一緒に声を合わせて祈る。そこには「自分の声と他人の声が溶け合うような瞬間がある」と語る。

感謝の祭儀に的を絞ってみよう。一般に司祭の説明は善意からでも多すぎる。司祭が何でも行ってしまう傾向が強い。「感謝の祭儀」での祈りの唱和がもっと前面に出てきて欲しい。それには工夫が必要。ただ、「聖書と典礼」のしおりに見入っていては、何も始まらないのでは。もちろん祈りの意向は大事である。しかし、一緒に声を合わせて祈ることももっと大事である。

主任司祭 長澤幸男

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