チプリアニ司教は、こう説明している。「神が自ら欲することを行うのではなく、私たちが、神が望まれることを行うことができるように」。彼はこの点を説明して「私たちは、神がなさることを不遜にもああだこうだと言えたがらでなく、ひたすら、『御心が行われますように』と祈るばかりです。それも一寸先は闇で、心も意志も弱い故、私たちを助け、支えて下さるよう、祈らずにはおれません」。こう言い切って直ちにゲッセマニの園での主イエスの祈りに話をもっていきます。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26章39節)
察するに、あの熾烈な迫害の下、多くの信徒の筆舌に尽くしがたい拷問と壮絶な死を聞かされ、また、自分も早晩極刑に処されるだろうと予感がしたのだろう、そのような心境にもっとも相応しい祈りは、ゲッセマニでの園でのイエスの祈りと見てとった。実際、厳しい尋問に耐えきれず、あるいは、命惜しさに神々への賛美を強いられた結果、負けて妥協の道を選んだ信徒も少なからずいたのも事実である。彼らには「神々への犠牲」の証明書「リベツルス」と称するものが与えられた。中には賄賂で「リベツルス」を買う者、あるいは進んで犠牲を捧げる者などいたようである。
確かに、殉教を前にして心震え、恐れ慄くのは、至極当然であろう。そのような緊張のただなかにいる信徒に、寄り添うことのできるのは、自ら受難を経験されたキリストだけであろうか。チプリアニ司教はそれに気づいていたのである。
主任司祭 長澤幸男