聖霊降臨(ジョセフ・イグナズ・ミルドーファー画)

鷺沼教会協力司祭 阿部仲麻呂
(東京カトリック神学院教授)

 2020年は、あまりにもさまざまなことが矢継ぎ早に生じ続けており、無慈悲なまでの天変地異の連続となり、その都度の対応に追われすぎ、筆者も読者の皆様も「燃え尽き症候群」よろしく、かなりのダメージを受けたことと拝察致します。

「もえる」と聞くと、筆者は、(1)まず「草薙の剣」のエピソード(『古事記』および『日本書紀』所載)や (2)「絵仏師良秀」のエピソード(『宇治拾遺物語』所載)を想い出します。そして、(3)次に「聖霊降臨の出来事」(『使徒言行録』所載)をも連想します。
(1)「草薙の剣」のエピソードは日本武尊[ヤマトタケルノミコト]が危機を脱する場面を想い出させます。(2)「絵仏師良秀」のエピソードでは、火災の際でさえも巧い絵を描くことだけを考えて、燃える妻子を助けることを忘れてしまう残酷な画家が登場します。(3)「聖霊降臨の出来事」では使徒たちの心が燃えて新たな共同体が立ち上がります。

「もえる」というイメージは、(1)危機を脱する、(2)大きな犠牲をもものともせずに残酷なまでに無我夢中で仕事に徹する、(3)新たに心が愛情に駆られて共同体が成立する(「若芽が生え出て希望に満ちた新たないのちが活き活きと育つ様子。草萌えるありさま)、という三様の仕儀を連想させるわけです。
新型コロナウイルスの蔓延する地球上で生きている私たちは、いま、(1)危機を脱すべく必死にあがいています、(2)無我夢中で、(3)新たな共同体を目指して。

日本という土地で生きる私たちは、その文化に根差した「いにしえの物語」から学ぶとともに、「聖書」をひもといてキリスト者としての生き方をも確認します。つまり、私たちは日本の「いにしえの物語」と「聖書」のメッセージとが重なり合う日常を生きています。

さて、日本の若者のあいだでは (4)「萌える」という用法も広まっています。それは、おそらく、「心がほのかに桃色に染まるかのように可憐な様子」を指すのだと思います。年を重ねるにしたがって「萌える」あるいは「萌え」という表現には何とはなしに抵抗感が生じてきます。しかし、私たちキリスト者はキリストに対しての萌えを常に確かめながら前進しなければならないということもまた現実なのでしょう。いつまでも若々しく、キリストを恋い慕って生きてゆきたいものです。
いま述べたことと関連して、エマオへと逃亡する2人の弟子たちのあいだに静かに来られた主イエス・キリストのエピソードもまた忘れられません。
――(1)(2)(3)(4)「あのときの道中で復活の主が語っておられる聖書の説明を聞いていたとき、私たちの心は燃えて(=萌えて)いたではないか!」(ルカ24・32)

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