2月17日(灰の水曜日)から始まる四旬節に向けて、主任司祭・長澤幸男神父様からの動画メッセージを掲載致します。
《動画》(約5分)
《メッセージ全文》
灰の水曜日、四旬節にあたり、初代教会から教会が守ってきたことは3つです。
一つは、「祈り」です。四旬節の中で祈りを深める。四旬節の主日と平日のミサの朗読が連続してあります。これを連続して読んでいくと、キリストの死と復活という真理が、よく理解できるようになっています。祈りを深める、あるいは聖霊の味わいを深めていくということが一つです。
2つ目は、「苦行」あるいは「節制」という言葉を使っています。これはユダヤの伝統から来ていて、節制するということが最近あまりなくなっているだけに、せめて灰の水曜日と金曜日はきちっと断食を守るようにしたいものです。できることでしたら、金曜日・水曜日には食事を少し抑え、あるいは嗜好のものを少し控えるという努力をすることが大事でしょう。
先ほどの祈りというところで言い忘れましたが、「沈黙の中の祈り」を四旬節は強調しています。いつもテレビと音楽がかけられているのではなく、少し静かな時をもつということを考えてはいかがでしょうか。
苦行とか節制ということも、自分の生活そのものを考え直してみるために良いことです。それは各自が自分で考えるべきことです。食べ過ぎでしたら少し減らしたらよいし、飲み過ぎでしたら少し減らしたらよいし、吸い過ぎでしたら量を減らしてみるとか、自分で決めて苦行してみることです。
それから3つ目。初代教会から「お布施」ということが言われています。寄付するということ、あるいは寄付というのは、別の言葉で言えば、「愛徳の業を行う」ということです。犠牲するだけでなく、犠牲して、例えばコーラの1本を飲まないで、貯めたお金を寄付するのです。必要な人にあげるという伝統を、教会は持っています。
四旬節では、愛の献金という習慣があります。小さな自分の貯金箱みたいなものを持って、1本のコーラ、1本のタバコをやめて、そのお金を入れていくと、こんなところで意義が出てきます。これを考えますと、教会は知恵があると思います。こういうことを通して、四旬節をいかに過ごすかということを、私たちに具体的に勧めるのが教会の知恵です。
今、節制とか祈りとか愛の行いについて話をしましたが、大事なことは、私たちの心がどこに向いているかであります。例えば祈る時、私たちの心が本当に神に向いているであろうか、あるいは施しをする時に、生活に必要なものをこと欠いている人に心を向けているかどうかを調べます。人に見せたり、自己満足のために施しをするのは、心を向けるということではありません。祈っている時に人に見せびらかそうとしているなら、それはまったくおかしなことではないかと思います。断食も単なる我慢比べではありません。
イスラム教徒の断食についてのある話を、私は思い出しました。ムスリムが断食するのは、食を断つこと自体に意味があるのではない。食物なしに生きることのできない自分を見つめて、この自分を生かしてくださる神の愛を思うこと、また必要な食べ物にこと欠く兄弟のことを思うためである。実に見事な定義だと言えましょう。
自分を生かしてくださる神の愛を思うこと、また必要な食べ物にこと欠く兄弟のことを思うこと。ここに私たちの断食とか、祈りとか施しの意味があるのではないでしょうか。以上です。