見つかった喜び ― 2021年4月号

アイキャッチ用 善き羊飼い

善き羊飼い(ベルンハルト・プロックホルスト画)

主任司祭 長澤 幸男

 いまだに、新聞、テレビのニュースに、いじめがもとで自ら命を絶つ暗い話が後を絶たない。とりわけ小学生や中学生がマンションの屋上から飛び降り自殺したとのニュースを聞くと、痛ましい限りである。幼い子供なら、ひと一倍注射を打つのさえ怖がり、また死への恐怖心を持っているのに、その恐怖や痛さよりもあえて死を選ぶまで追いつめられていたのかと思うとやるせない。

いじめの中で、最も厳しいのは、「無視」であろう。昔は「村八分」があったが、現代でも仲間外れは辛い。仲間が輪になって楽しく会話が弾んでいるさなかに、仲間に入れてもらいたいと輪に入ったとしよう。皆は、彼を完璧に無視を決め込む。彼を非難したり、からかったりするのは、少なくとも彼を意識している証拠であり、何かとりつく島があるが、彼が入ってきたのも知らん顔で、自分たちの会話を続ける。あたかも誰も入ってこなかったかのように話を続ける。こんなにきつい仕打ちがあるだろうか。

彼は、自分が無視されていると気づいたとき、自尊心が完膚無きまでに痛めつけられ、目のやりどころもなく宙を舞う。皆の前で大恥をかく。自分がピエロのように感じて、居場所がないことをいやというほど思い知らされる。

ヨハネ福音書にも、仲間外れの話がある。イエスに癒され、目が見えるようになりイエスを証言しようとする件(くだり)、治った生まれつきの盲人に対して、ユダヤ人は「彼を追い出した」とある。

その後、イエスと彼との劇的な邂逅の中に、社会から追放された人を探し求める神の姿を見ることができよう。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」(イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(ヨハネ福音書9章36節)

この他に、見失った羊、失われた銀貨、さらに放蕩息子のたとえのように「あなたがたも、自分の大切なものが無くなったら、必死に探し回るだろう」ということである。見つからないと大損。主イエスがこの2つのたとえ話で、「あなたがたも当然そう思うはずだ」と言っておられるのはそのことなのである。「あなたがたも、自分のもの、財産が失われるとなったら、必死に捜し回り、なんとかして見つけ出そうとするだろう」ということ。この「自分のもの」ということが大事である。

出会いの喜び
このようにイエスは、神が人を探し求め、見出し、出会いの喜びをしつこいほど何度も言われる。そう言えば、キリスト教の世界では、神は父と子と聖霊の三位一体で、絶えず父は子に、子は聖霊に、そして聖霊は父と子に強い意識で目を向けて繋がっているのであるが、この特徴は、人間の世界にもほとばしり、一人ひとりに対して無関心ではおられず目をかけておられる、これがまさに火山のごとく、躍動している、三位一体の神秘であろう。だから人もどうしなさいとモラルの域になると、この世界が急に萎んでしまう。

昔から、人生の転換となった人との邂逅、さらに刎頚(ふんけい)の友、無二の親友と言える人との巡り合いも事実存在する、しかし、本当に「友」と呼ばれる人は、生涯5本の指に数えられるのは稀有であろう。明るく笑いさざめいている若い男女の集まりにあってさえ、苦笑と、失笑とときには冷笑があるのを皆少なからず経験している。それほど、深い出会いは少なく、困難な代物である。

しかし、時には神に魂が揺さぶられ、思わず泣き崩れるゆるしの姿のなんと感動的なことか。歓喜して Amazing Grace の一節 I once was lost, but now I was found. (道に迷っていたのに、主がわたしを見つけて下さった)を歌いたいものだ。


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