「復活祭」(イースター・復活の主日)のご報告です。
年に1度のこの大祝日を、教会はイエスのご受難、ご死去、復活をそれぞれの典礼をもって記念します。
復活徹夜祭では、6名の方が洗礼を受けられ、1名の方が初聖体の恵みを受けられました。おめでとうございます!
コロナ禍において、今世界を覆う不安や嘆きを、復活された主の光と喜びがかき消して下さいますように、共に祈りたいと思います。
そして長澤神父様、緊急事態宣言等新型コロナによる様々な影響の中私たちをお導き下さり、ありがとうございました!
《4月3日 復活の主日・復活徹夜祭》
《4月4日 復活の主日・日中のミサ》
《復活徹夜祭ミサ説教概要》
初代教会において、復活について2つの合言葉があります。
1つは「主はよみがえって今も私たちのうちに生きている」。これは、ローマ典礼の中に入祭唱として今も残っています。
もう一つの合言葉は「主は先だってガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。これには色々と解釈がありますけれども、おそらくこの「見る」というのはギリシア語を話す信者たち、ギリシアの影響があるのではないかなと思っております。
金曜日、イエス様が十字架に掛かって亡くなられました。そしてもう夕方でしたから、日が沈むともう土曜日、安息日なのでユダヤ人たちは動いてはいけないんですね。それで慌ててご遺体を簡単に処理して、50mぐらい離れたところの墓に入れた、と書いてあります。そして日曜日、安息日が終わった朝早く、婦人たちはもう一度そのご遺体を丁寧に処理して収めようとしました。ところが着いてみると墓は空っぽになっていました。これは意味が深いんですね。墓は空っぽであった。
墓は、イエス様が留まっている場所じゃないんです。墓というと、人生の終わりとか、悩みとか、苦しみです。そんなところにはイエス様はおられません。「墓は空」というのはそういう意味なんです。
そして、「ガリラヤでお目にかかれる」。1つの解釈は、ガリラヤというのは、弟子たちとか古い信者たちにとってはなじみぶかいところです。ガリラヤは心の故郷だったんですね。なじみぶかいところ。ある聖人が言っているとおり、それは私たちの「日常生活」です。学生とか生徒でしたら「学校」で、お仕事をしている人たちには「働きの場」、あるいは主婦でしたら生活の「生業をしているところ」。そこで初めて「お目にかかれる」。私たちの中にいるキリストにお目にかかれる。キリストのお恵みを感知できるということです。
自分の生活の場こそキリストとの出会いが行われるところである、という意味でありましょう。