協力司祭 榎本 飛里
オートマチックなニュアンスのある「かなう」に比べ、「かなえる」という語感が好きです。そこに意思が存在するということだけではなく、自らが働きかける余地があるということ、余地が与えられているというところがとても好きです。
恩恵論を蒸し返すつもりはありません。恵みというものは人間の側の努力があって、それが前提となって与えられるものではない。神が「まったく無償で」与えて下さるのであって、私が何かをしたから、その褒美として、報酬として与えられるものではない……。みんな知っていること。当然、私だって知っています。しかし、慈しみ深い神は、わざと私の仕事を残して下さっているのです。それを神と私との共同作品にするべくあらかた整えておいて、最後の仕上げの部分だけは私が自分の手で行うようにと、わざわざ取っておいて下さっているのです。このお心遣い。これが苦難や困難となって、私に託されます。そう考えると、苦難や困難というものは「神からの信頼の印」と言い換えることができるかもしれません。
学校で中高生に無理難題を吹っ掛けるとき(実際には無理難題を吹っ掛けていると装っているとき)、彼らは「そんな無茶な」と思っているかも知れません(いや、実際にそう思っているらしいのですが……)。しかし、私は、彼らがそれを乗り越えてくれると信じているからこそ、敢えてそのような壁を準備しているのです。すんなりと先へ進まないように、わざわざ「適度な負荷のある壁をデザイン」しているのですから、こんな手の込んだ、面倒くさい仕事はありません。時々、失敗もさせます。また、デザインのミスにより「思わぬ失敗」につぶれてしまいそうになる場面においては、見える形で、見えない形で、助け船を出すこともままあります。いずれにしても、彼らは「自ら壁を乗り越えた」と成長を実感し、本当の壁を前にして臆することなく立ち向かっていくようになるのです。
このような若者の成長を目の当たりにして、私がどれほど幸せを感じるか想像してみて下さい。もちろん、私がサレジオ会員であるということと深い関係があるのでしょう。しかし、「愛する人びとの成長」を見て喜ばない人などいるでしょうか? ましてや、私たちを愛して下さる神が、私たちの成長を見てどれほど喜ばれることでしょう? そのために必要な壁をどれほどの愛をもって準備されることでしょう? 私たちが自分の力で願いをかなえんとするとき、同時に、神の願いを私たちがかなえようとしているという事実に気づきましょう。その喜びのために、神は不完全を装われます。私たちに働く隙を与えて下さるのです。私たちなら、成し遂げられると信じているからこそ、手を引かれているのです。
神の信頼に応えましょう。作品を仕上げる喜びを享受しましょう。この期に及んで、さらに成長して行きましょう。この手で、あるいは人びとと手を取り合いながら、神と私たちとの願いをかなえて行きましょう。幸せになるくらいのことはやり遂げたいものですね。