昨年12月のある日、40代の信者の女性から鷺沼教会に電話がありました。彼女は問題を抱えていて、最近教会に通っていなかったようです。その理由は「三位一体の神というものが理解できず、信じられない」ということでした。
この女性はミッションスクールに通っていた時に洗礼を受け、のちにその学校の教師となりましたが、「シスターたちの教育方針に納得いかなかったということ」で学校を辞めたそうです。しかし、これらの疑問は言い訳に過ぎず、実際のところ彼女自身、カトリック信者として信仰が堅まっていないように思いました。それはのちに新興宗教に通うようになって、そこで教団が決めた男性と結婚したそうですが、上手く行かずに別れてから、いい加減な生活を送っていたからです。
この女性に対して、私は「人間、神については砂粒ほども分かっていないかもしれません。だから頭で理解しようとしないで、信仰の心で受け止めることが大事ではないでしょうか」と説明しました。そしてまた彼女に対して、「もう少し謙虚になって、自分の信仰を見つめ直したらたらどうですか」と伝えました。すると彼女はその言葉を素直に受け止めたかのように、「お忙しいところ、ありがとうございました」と言って電話を切りました。
三位一体のような神秘や理解できないことは、私たちの生活にはいくらでもあります。しかし、それに対して、私たちが自分で答えを求めようとするのではなく、聖母マリアのように、理解できないことがあっても、心に納めて、思いめぐらすことが大事ではないでしょうか。
これは現実を受け止めようとする人の態度です。また信頼した相手に無条件に自分をゆだねる態度でもあります。つまりこれは「よくわかりました。だから従います」というのではなく、「あなたを信頼します。だから喜んで従います」という信頼に基づいた態度です。
私たちもマリアのように信仰の心で、神に従うことが大事になってくるでしょう。そうすれば、理解できないことがあっても、必ず何か見えて来るものがあるのではないかと思います。
主任司祭 西本 裕二
La Vierge de l’Annonciation © Carlo Dolci / Louvre PD https://collections.louvre.fr/ark:/53355/cl010065920