主任司祭 西本 裕二
私たちの人生にはつまずきや挫折があります。離婚、病気、失業、倒産、仕事や受験の失敗など様々なことにつまずいて、挫折します。そして人によっては大きな打撃を受けて、立ち上がれないかのように思う方もいます。
ことわざに「七転び八起き」というものがあります。これは多くの失敗にもめげず、そのたびに奮闘して立ち上がることを言っています。つまり人生の局面において、挫けないで頑張ることを教えています。
聖書にも似たような格言があります。「正しい者は七度倒れても、また起き上がる。悪い者はつまずいて滅びる」といった箴言(24・16)の言葉ですが、聖書はなぜ「また起き上がる」と言っているのでしょうか。それは聖書で言う「正しい者」とは、信仰をもって生きている人を指しているからです。つまり神への信仰をもった人は、何度つまずいても、神に助けを求めるので、何度でも立ち上がることができるということではないでしょうか。
日本を考えてみますと、焼け野原の中で終戦を迎え、混乱の苦難を乗り越えて、今日の繁栄を築きあげました。
また日本各地で起こった地震や豪雨などに対しても、そのたびに、危機や困難を乗り越えて復興し、成長や発展を遂げています。それは日本人が困難を前にしても打ちひしがれることなく、努力して克服して来たからではないかと思います。
このように大抵のことは、人間の努力や思いなどによって克服することができるでしょう。
しかし人間、「死」に対してはどうでしょうか。自分の死だけではなく、親しい人の死も同じです。努力だけで克服することはなかなか難しいように思います。それは死というものが人間の理解を超えた深遠なものだからです。
自分自身のことになりますが、私は小学生のときから死への恐怖心にとらわれていました。死を考えるとドクドクと心臓の高鳴りを感じ、自分が死ぬ夢を何度も見るほど、死に対して敏感なところがありました。
正直、教会の門を叩いたきっかけの一つがこの死の恐れからの克服だったと思います。つまりその答えをどこかに求めていたということです。
「死ぬのが怖い」というのは人間としての当然の思いでしょう。しかしその答えをどこに求めるかが大事だと思います。私はキリスト教にその答えがあると思って、洗礼を受けました。おかげで今はそれほど死を恐れていません。なぜならば人間、死んでも終わらない命があると思えるようになったからです。
イエスは復活によって、私たちに永遠の命を与えて下さいました。それによって、死ぬことに恐れがあっても希望を見いだすことができます。
「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11・23~26)このイエスの言葉に弱い私たちはどれほど励まされ、慰めや希望が持てるでしょうか。
私たちは自分に起こる様々な困難や試練のみならず、死の恐れも乗り越え、自分で立ち上がって歩んでいけるためにも、復活の信仰を新たにするように致しましょう。
(教会報『コムニオ』2022年4月号より)