【ご報告】2022年 復活祭のご報告(動画あり)

アイキャッチ用 2022年 復活祭

主のご復活おめでとうございます!

「復活祭」(イースター・復活の主日)のご報告です。

年に1度のこの大祝日を、教会はイエスのご受難、ご死去、復活をそれぞれの典礼をもって記念します。
復活徹夜祭では、1名の方が洗礼を受けられ、1名の転会された方がおられました。おめでとうございます!

コロナ禍や戦争といった今世界を覆う不安や嘆きを、復活された平和の主の光がかき消して下さいますように、共に祈りたいと思います。

《写真》

(各写真をクリックすると大きく表示されます)

《動画》

※ミサ説教音声+復活祭の写真によるスライドショーです。(約7分40秒)

《ミサ説教書き起こし》

(復活徹夜祭ミサ説教からの書き起こしです)

今日の福音におきましては、マグダラのマリアなど、イエスを慕っていた婦人たちが墓に行ったことが記されております。この日はイエスが亡くなってから3日目でありました。そして「週の初めの日、朝まだ早く、まだ暗いうちに」とありますように、とにかく彼女たちがそこに行かざるを得ない状況を示していると思います。
しかし、婦人たちはみんなイエスの復活を期待して墓に行ったわけではありませんでした。ただイエスへの思いだけが、彼女たちを墓へと駆り立てたのであります。
婦人たちを代表するマグダラのマリアは、罪を犯した女性とも言われております。ですから彼女は、イエスから受け入れられ、大きな罪を赦された分、イエスを慕う心というものが誰よりも、強かったんだと思います。だからこそイエスが亡くなってもイエスを求めて墓に行ったのであります。

では、ペトロなど使徒たちはどうであったでしょうか?
使徒たちはマグダラのマリアから、イエスに出会ったことを聞きました。しかし、最初、たわごとのように思い、まったく信じませんでした。
しかし使徒たちも、イエスに対する強い思いがありましたので、慕っていたイエスを心配して自分たちの目で確認に行ったんです。「ペトロは立ち上がって、墓へ走っていった」とあるようにペトロのイエスに対する思いが行動に如実に表れたんだと思います。

マグダラのマリアも、そして使徒たちも、イエス亡き後、希望を失いかけ、何も変わらないと思っていました。そのような彼らが復活を受け入れたのは、やはり彼らのイエスに対する思いに他ならないと思います。
この思いというものが、行動を起こさせて、復活を受け入れ、そしてイエスと出会うことができたんだと思います。

イエス亡き後、何もできなかった人たちや、マグダラのマリアが行動しようとしたときに、彼らはイエスと出会いました。誰かが行かなければならない。彼らはこの誰かというのを人任せにしないで、自分たちで行いました。
また、行っても仕方がないとか何も変わらないという気持ちではなくて勇気を出して行動した時に大きく変わっていったのであります。
これが私は大事な点だと思います。

つまり彼らは信仰を失いかけましたけれども、自ら行動を起こしたときに彼らは信仰を取り戻し、イエスと出会い、変わっていったのです。

使徒たちや マグダラのマリアの、イエスに対する思いというのは、子供のように単純で、純粋なものだと思います。
ペトロは復活されたイエスが再び現れたときに、それに気がついて恥ずかしさのあまり服を着たまま、湖に飛び込んでいるんです。またマグダラのマリアも墓に行ったときに、そこにいた2人の人に涙ながらに「私の主が取り去られました」「どこに置かれているのか教えて下さい」「私が引き取ります」と言って、心から願い出ております。

神は私たちの才能や能力ではなく彼らのような自分の心のうちにあるひたむきな思いというものを何よりも大事に受け止めてくださる方であります。

世の中にはひたむきに生きている人はたくさんいると思います。
『乱れ髪』を書き残しました与謝野晶子という明治の歌人がいたことを皆さんもご存知かと思います。彼女は夫の与謝野鉄幹と共に晩年にカトリックの洗礼を受けております。与謝野晶子という女性はひたむきに作品を作り続けることがありまして情熱の歌人と言われておりました。しかし、彼女の人生というものはとても波瀾万丈で、実体験から書き記した恋の歌でデビューしまして、西洋女性の生き方に共感し、女性の立場を守るために、選挙運動など、様々な活動を行っております。そして夫の鉄幹に先立たれて、夫を見送ることで、永遠の愛というものを、彼女は知ることになります。
つまり彼女が人生をひたむきに求めていたのは本物の愛であったと言えるのではないでしょうか。
つまり、このようにひたむきに生きた彼女の人生には、必然、キリストとの出会いというものが待っていたんだと、私は思います。

マグダラのマリアや、与謝野晶子のような、ひたむきに生きる姿というものを考えるときに、私自身これまでにひたむきに求めていたものがあったかということを反省させられます。
復活に対する信仰というのは、イエスへのひたむきな思いというものにつながっていると思います。このひたむきな思いだけが私たちを復活したイエスと出会わせ、愛と福音宣教への使命へと駆り立ててくれると思います。

どうぞ信徒の皆さんも、イエスという方をこれからもひたむきな心で求め続けていただきたいと思います。
特にこの復活祭をとおして、私たちは自分の信仰というものをもう一度見直しましょう。そしてイエスとイエスへの思いというものを少し考えてみるように致しましょう。


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