教会での葬儀

ここ最近、都筑教会では葬儀が続いています。一般的に葬儀が多いと不幸が続くということで縁起が悪いように考えますが、私たちキリスト信者は、今、四旬節でもありますので、自分の死というものを考える良い機会と捉えるべきかもしれません。

「メメント・モリmemento mori」という言葉をご存じかと思います。これはラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」とか「死を覚えなさい」といった意味合いです。

古代ローマでは将軍が凱旋パレードを行った際に「将軍は今日絶頂にあるが、明日がそうであるかわからない」ということを思い起こさせるために使用人が言った言葉とされています。ただし古代ではこの言葉は広く使われませんでした。また古代、メメント・モリは、むしろ「食べて飲んで陽気になろう。明日は死ぬんだから」といった悲壮的な勧めの言葉であったと言えます。

それが後にキリスト教の世界観において、メメント・モリは違った意味合いをもって浸透していきました。それはキリスト教にとって死への想いは、この世での楽しみ、贅沢、手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、それがのちの世に思いを馳せる要因となりました。

そして中世修道院では挨拶のように交わされた言葉でもあります。それは死を考えることでより良く生きることができるからです。また現在、サレジオ修道会でも「良き死の準備」と言って、いつ神に呼ばれても大丈夫なように“心の準備”が勧められています。これもメメント・モリが反映されたものだと思います。

「良き死の準備」とは、単に身の周りを整理することではありません。心を整えることです。それは自分がいつ死んでも大丈夫なように、常に愛の心を失わないためです。

私たちは、いつか必ず死ぬ存在であることを忘れずに、四旬節、復活に目を向けて、何よりも“心の準備”を大事に致しましょう。

主任司祭 西本 裕二


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