6月29日はペトロ・パウロの二人の使徒を記念します。彼らは教会の礎を築き、大きな役割を果たしました。私たちは、彼らから多くのことを学ぶことができます。その一つは「宣教者」としてのパウロの姿です。パウロは回心する前、彼の心の目を塞いでいたものがありました。それは律法へのこだわりです。

パウロは、キリスト信者になってからもこの律法を捨てたわけではありませんが、それ以上にキリストの素晴らしさを知りました。それゆえに彼は律法の本当の意味を知ることができたのです。

では、このパウロの姿から何を学ぶことができるでしょうか。それは福音宣教のためには、“こだわりを捨てる”ことです。こだわりは、愛着という言葉にも置き換えられますが、この愛着こそ福音宣教の妨げになるからです。

現代、国でも、企業でも、教会でも、修道会でもこの愛着主義と言えるものが、発展や進歩の妨げになっていると思います。
昨今、修道会においては、高齢化や召命減少のために、すべての事業を運営していくことが困難になってきています。そのような中で、20年後、30年後を見すえた事業の展開を考えていかなければならないと思います
しかし、修道者の中には長い歴史によって築かれたものだから、方針を変えたり、事業を止めるべきではないと反対する人もいます。けれども、そこにいつまでもしがみついていたら本当に大切なものまでも失ってしまうかもしれません。

この愛着主義は、教会においても同じです。「これまで何十年もやってきたミサだから、祈りだから、また歌だから、変えないほうが良かった」という声があります。しかし、教会は時代とともにそのあり方も変わってきます。教会が今の時代の必要に応えるものでなければ、その存在意義はなくなってしまいます。
私たちが譲れないのは、“イエス・キリストを伝えること”だけです。「これじゃないとダメ」なのは、キリスト以外無いということです。

使徒パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもする」(Ⅰコリント9章23)と言われました。これは手段を選ばないという意味ではなく、キリストを伝えるためだったら、その他のことはこだわらないという意味で、実際に彼は福音宣教の際、行く先々で、その地域や人に合わせて、宣教活動をしています。そして「ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、律法を持たない人には律法を持たない人のように」(9章21-22)関わったのです。

このようなパウロの宣教活動のための“柔軟さ”は、今の私たちキリスト信者にも必要です。教会の発展も衰退もこの柔軟さにかかっているからです。教会の歴史を振り返って見ても、柔軟さがなかった時代、教会は腐敗し、衰退しています。
私たちは、本質であるキリストを伝えるということが、ぶれない限り、新しいことに取り組んでも、あるいは刷新しても、恐れや心配する必要はないでしょう。なぜならば、そのような姿勢にこそ、キリストの力と助けというものが大きく働くと思うからです。

主任司祭 西本 裕二

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