キリストと姦通の女(ピーテル・ヴァン・リント画)

先日、教会で行われた葬儀の後、私は司祭として火葬場へ同行しましたが、「火葬前の祈り」を行おうとした時、同じタイミングで少し隣の場所で僧侶がお経を唱え始めたのです。ところがその僧侶のお経の声がやたらと大きく、私たちの祈りや会話がかき消されてしまいました。一緒に行った葬儀屋の担当者の方も「あのお坊さんは特別に声が大きかったですね。申し訳ありません」と言って、私に気遣ってくれました。

また、この翌週も教会で葬儀が行われ、同じように火葬場に行きました。今度は火葬の際、私から「最後に遺族がお別れの対面をしたいのとお祈りがあるので棺の窓を開けて下さい」とお願いしたところ、職員の男性が「決まりなので開けられません」と言ってきたんです。私が「最後のお別れなんですよ」と言い返すと、「受付で許可をもらって下さい」と融通の利かない受け応えをしてきました。それで私が少し強い口調で「これまで開けてもらっていましたよ」というと、何とか棺の窓を開けてくれました。市営の火葬場のせいか、まるでお役人のような対応でした。

TPOという言葉があります。Time(時)、Place(場所)、Occasion(場面)です。これは人間として、その時、その場所で、その状況にあった対応をしていくということで大切な事だと思います。そしてこれを実行していくためには、「愛のある配慮」が必要でしょう。あの僧侶の方も遺族のために一生懸命にやろうという思いがあったのでしょうけれども、周りにも悲しんでいる人がいるのを考えなかったことは、配慮に欠けていたように思いました。また火葬場の職員の方も、決まりを守ろうという思いがあったのでしょうけれども、最後の別れをしなければならない遺族の辛い思いを汲み取ろうとしなかったことは、同じように配慮に欠けていたように思いました。

イエスは、「姦通の女」(ヨハネ福音書8章3-11)の箇所で、この女性をめぐって、イエスと律法学者たちが対決します。イエスはその場所に居合わせて、姦通を犯した女性が殺されるかもしれないと判断し、その時にイエスの取った行動は、石を投げようとしていた者たちを別なところに目を向けさせるもので、まさに「愛のある配慮」の模範です。イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者だけが石を投げなさい」といって、しばらく黙って地面に何かを書いていました。これはイエスが彼らの愚かさに気づかせようとしていたのか、あるいはうんざりさせようとしていたのか分かりませんが、イエスの対応は、結果的に律法学者たちの目を姦通の罪を犯した女性から離れさせたことは間違いないでしょう。

律法学者のように「自分たちの正しさを押し通そうとするところ」は、私たちにもあるのではないでしょうか。また彼らのように「罪は罪だからゆるされないという融通の利かない考え方」も、私たちにもあるのではないでしょうか。
しかし、私たちはイエスのようにつねに「愛のある配慮」をもって、様々な状況に対応していかなければならないと思います。

主任司祭 西本 裕二


おすすめ記事