ドン・ボスコ in スペイン・バルセロナ(1886年)

協力司祭 阿部 仲麻呂

筆者は1992年から教壇に立っています。早くも32年の歳月が流れました。教えるのが苦手でありながら、よくも務まるものだと呆れています。人生の意味を教えて下さった恩師の岩切敬一氏に感謝するため、あるいは教師になりたくても脱落して道を変えざるを得なかった同輩たちの苦悩を忘れないため、教える仕事から逃げなかっただけです。しかし無理なものは無理ですし、やはり苦手で苦痛です。黙って著述に専念するほうが向いており、心が穏やかに落ち着きます。物言わぬ不器用な職人でありたいからです。

実は5歳のころから近隣の子供たちを集めて「なるたき塾」(※)を開いていました(シーボルトみたいに?)。ちりがみに黒い太字のマジックで字を書かせ、無茶な要求を突きつける先生役でした。子供たちは我慢して参加しましたが、休憩時間に母からお菓子や飲み物をもらうと、みな一目散に逃げました。今でも教壇に立つと、5歳のときのあの光景がよみがえり、「自分は教師として失敗するのではないか」と怯えています。

「イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」(マルコ6・6)。冷たくあしらわれて、ふるさとでは歓迎されなかったイエスは別の地域で活動することを余儀なくされました。それでもイエスは決して諦めることなく、相手を愛することの重要性をあらゆる人に教え続けました。しかし、ふるさとの人びとは自分たちの立場でしか物事を眺めることができない狭さを抱えていました。相手を自分たちの理解できる範囲で評価して、馬鹿にしていたのです。諦めずに愛情深い言葉を語ることが教えることなのでしょう。

1月31日が記念日の聖ジョヴァンニ・ボスコは、19世紀に大人たちから理解されないままで、大人の都合で利用されて棄てられた子供たちや青年たちを理解して尊重しました。彼は大人の都合を子供たちに決して押し付けずに、相手の立場に立って奉仕しました。つまり、子供や青年たちをかけがえのないひとりの尊い人間として迎えたのです。

イタリアのトリノ教区司祭のジョヴァンニ・ボスコは19世紀の聖人です。彼は16世紀のフランスとスイスで活躍した聖フランソワ・ド・サール司教(イタリア語ではフランチェスコ・サレジオ)の著作を読み、大きな影響を受けました。もともとは怒りやすく傲慢なフランソワが30年以上もかけて努力を積み重ねて生き方を180度転換させたことから学んだのです。ボスコもまた数十年かけて、穏やかで親切な牧者に変わりました。

何よりもイエス・キリストが30年かけてマリアやヨゼフに仕えて隠れた生活を送りました。16世紀のイグナチオ・デ・ロヨラもイエスの隠れた生活の意義を黙想して見倣う修行の仕方を重視しました。イグナチオと同じ時代を生きたフランソワも、19世紀のボスコもナザレでのイエスの隠れた生活の努力をまねしたのかもしれません。
私たちは、それぞれの性格を抱えて生きています。しかし30年かけて性格を良くすることができます。30年の隠れた努力がキリスト者の人生の基礎を作り、その後は公の場に積極的に出向くほどの活動的な実りを生みだすことにつながるのです。イエスの教えは、前向きに生きる姿勢そのものでした。丁寧で忍耐強く、相手を愛情深く迎えることが不可欠です。

ボスコは近代のヨーロッパの産業革命の犠牲となった数多くの子供や青年たちを路上から助け出した教育者(今風に言えばストリートチルドレンの世話係、日本では新宿歌舞伎町のトーヨコにたむろする青少年たちを助ける見回り担当者のような者)でした。19世紀の資本家たちは農村から数多くの青少年たちを甘い言葉で連れ出して大都市の工場で長時間労働させ、過労で病気となった者を路上に棄てました。貧しさのゆえに教育を受ける機会がなかった農村出身の青少年たちは、読み書きができなかったので、労働条件の悪い契約書に強制的にサインをさせられました。

ボスコは騙されて利用された挙句に棄てられた青少年たちを招いて、食事と眠る場所を提供し、読み書きを教えるとともに、町の職人たちの有志を募って職業訓練の指導者として若者たちの世話に当たらせました。しかもボスコは青少年たちを自由に遊ばせるための大きなグラウンドを購入し、聖書の内容を演劇で表現するクラブ活動などを奨励することで心のゆとりと信仰教育をつなげました。その結果、数多くの青少年たちが満たされた心の状態で前進する自立した社会人として適正な就職先で働けるようになりました。

大人たちに利用されて棄てられた目の前の一人ひとりの青少年を具体的に支えたボスコは怒りやすい自分を鍛えるために最初はフランシスコ会に入ろうと考えましたが、青少年の支援活動を24時間続けることができるように教区司祭になることを選びました。彼は自分が始めた青少年の独立支援運動を続ける後継者を増やすためにサレジオ修道会を設立しました。聖フランソワ・ド・サールのように偏らない心で寛大に相手を愛情深く育てる姿勢で具体的に助けるためです。ボスコはトリノ教区の司祭研修所の養成者として教会史の教授を務めるように恩師のカファッソ院長から頼まれましたが、青少年たちの悲惨さを見過ごせずに、保証された人生を棄てました。彼は学問を教える教師にはならずに、むしろ愛情を具体的に示す親心を相手にひたすら伝えようとしました。

19世紀の大都市トリノのあちこちでは、目の前の相手をすぐに助ける運動が雨後のタケノコのようにたくさん生まれました。つまり、悪意に満ちた青少年搾取システムが広がった工業地帯で、資本家の自己中心的な経済活動を反省させるような数多くの青少年支援運動が活性化しました。
ボスコだけが特別な才能をもっていたわけではなく、「このままではダメだ」と実感する数多くの聖なるキリスト者が影響を及ぼし合っていたのです。ボスコが独自に作ったシステムはひとつもありません。近隣の司祭たちや信徒たちの慈善活動の長所をほうぼうから借りて、うまくまとめ上げただけでした。しかし目の前の相手に集中して徹底的に親切を尽くして大切に迎える心意気だけは天才的で群を抜いていました。「大切な身内として相手を歓迎する家族意識」を究めたのです。

私たちも「このままではダメだ」と実感する気持ちを大事にすることで、そういう想いをもつキリスト者がお互いに協力して愛情深い支援の活動を作り出せることに希望を見出します。さまざまな聖人たちが渦巻くトリノから世界に広がった愛情深さの運動を思い出すことで、新たな救いの歴史を作り出すことができるからです。

※註 鳴滝塾;蘭学者のシーボルトが1824年に長崎の郊外に開設した私塾のこと。

【追加資料】
サレジオ会「ストレンナ2024 : ドン・ボスコの夢 わたしたちの夢 ~9歳の夢から200年~」の説明資料 (ストレンナ: サレジオ家族年間目標)
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サレジオ会 ストレンナ2024 説明資料
「ドン・ボスコの夢 わたしたちの夢 ~9歳の夢から200年~」

(教会報「コムニオ」2024年1・2月号より)


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