聖ヨハネ・パウロ2世教皇は、復活節第2主日を「神のいつくしみの主日」と制定されました。それは教皇の出身であったポーランドのいつくしみの聖母修道会のシスター聖ファウスティナ・コヴァルスカにイエスが現れたことに由来しています。彼女に現れたイエスの幻想を描いた「いつくしみのイエス」の絵は有名で、東京カテドラルにポーランドから寄贈されたオリジナルの模写がありますが、都筑教会にも朝ミサを行っている横浜修道院第二棟の聖堂にも小ぶりの「いつくしみのイエス」の絵を飾っています。
新しい典礼になって、以前使っていた「あわれみ」という言葉の多くが「いつくしみ」に変更されました。正直、私は最初「あわれみの方が良い、いつくしみは上からの目線のようなイメージがある」と勝手に思っていました。しかし、故岡田武夫東京大司教の東京教区のWEBに掲載された2016年の説教で第一に「“いつくしみ”とは、上からの目線の態度ではなく、それを受ける側を小さく見て、人間の尊厳を傷つけることではない、そして“いつくしみ”とは、すべての人間に存在する尊さ、美しさ、善さを分かち合うことである、さらに第二に “いつくしみ”とは人の悪をただ見て同情することではなく、世界と人間の中に存在する悪からも善いことを見いだし、引き出し、促進する、創造的な愛である」と言われました。私はこれを読んで、特に「人間の尊さ、美しさ、善さを分かち合う」という言葉が腑に落ちました。ですから、今は、「いつくしみ」という言葉を神の人間に対する同じ目線の表現として味わって使っています。
そして今日の福音に登場する使徒トマスにイエスが現れ、傷跡に触れさせた態度こそ、いつくしみを表していると言えるでしょう。私たちもイエスのように、人のうちに存在する尊さや美しさ、善さを分かち合える人間になっていかなければならないのではないでしょうか。
(東京大司教区WEB参照)
主任司祭 西本 裕二