主任司祭 西本 裕二
「伸び悩み」という言葉がありますが、私自身、これまでの自分の人生を振り返ってみたとき、節々で「伸び悩んだ」ことが幾度もあったように思います。
心に強く残っていることの一つに、兄の影響もあって中学のとき、ある運動部に入って部活をしていたのですが、レギュラーになれないどころか、なかなか上達できず、自分の運動能力の「伸び悩み」を感じました。頑張って練習を積んできたつもりですが、それでも駄目だったので1年足らずで自主退部しました。そして私はこのときに初めて挫折を体験し、自分の弱さを感じました。
他にサレジオ会志願生になって一年ほどしたとき、そこでの生活にもまだあまり慣れていなかったのですが、担当司祭に呼ばれて「上智大学神学部を受験してみないか」と言われ、正直戸惑いました。なぜなら、それまで会社勤めをしていたこともあって、勉強からだいぶ離れていたので、机に向かうことすらなかなかできていなかったからです。またそれだけでなく30に手が届く年齢になって、「受験のために予備校へ通ったらどうか」と言われたときには愕然としました。
最初は「無理です」ときっぱりと断りましたが、説得されて勉強を始めました。しかし予備校ではやはり「伸び悩み」ました。成績が一向に伸びず、模試を受けてもE判定でこんなことで本当に大丈夫かと不安しかありませんでした。案の定、最初の受験は半年の準備期間しかなかったこともあって不合格でした。このときも挫折しかけ、召命を諦めそうになりました。でも担当司祭から励まされ、翌年に向けて引き続き予備校へ通いました。しかしそれでも成績がなかなか伸びませんでした。
ところが運良く、予備校の女性講師から的確なアドバイスを受けることができ、必死になって勉強することができました。落ちこぼれの神学生でしたが、何とか合格させてもらいました。
そしてさらに司祭になった今、霊的な「伸び悩み」を感じています。生活の不摂生が原因だと思いますが、実は15年以上前から両膝を悪くして、つねに痛みを感じています。階段の上り下りの際も、また同じ体勢で立っていても痛みを感じ、また座っているだけでも立ち上がるのに負担を感じます。そのため聖堂に座って、黙想や祈りをしても気持ちが落ち着かず、ゆっくり祈ることができていません。そんな弱さがあって、霊的な深まりに「伸び悩んで」います。
霊的に深まらないというのは、司祭として致命的です。ですから、それを克服するにはどうしたら良いかを試行錯誤して、霊的に成長、成熟するために自分の内面を変えていかなければならないと考えました。私はこれまでの人生で「伸び悩んで」、諦めようとしたことが何度かありましたが、それらをすべて「自分の弱さ」のせいにしてきたように思います。
しかし、その弱さは私にとって、むしろ必要なことだったと考えています。それは神が私に対して、弱さや挫折をとおして“謙遜”を学ばせるためであったと思うからです。そしてその弱さこそ、本当は霊的な深まりを与えるものではないかと思うようになりました。
使徒パウロは「わたしは弱いときにこそ強い」(Ⅱコリント12.10b)という言葉を残していますが、これは「人間として弱さを感じ、自分の力の限界を知った人こそ、神に頼って、神がその人を強くしてくださる」ということです。ここにパウロという人物の本当の強さがあったと思います。パウロにとっても弱さがありました。それを彼は「肉体のとげ」と告白しています。しかし、その弱さは何であったか明確に分かりませんが、ただ彼はその「とげ」によって、つねに悩み、苦しみ、それが取り除かれ、克服できるようにイエスに3度も祈っています。そんなパウロに与えられた神の言葉は次のようでした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12.9a)と。
私たちの誰の中にも弱さがあります。自分一人で頑張っている人や何でもできると思っている人ほど、実は弱いものです。
病気や老いによって抱える弱さ、同じ罪を繰り返してしまう弱さ、人の意見を素直に受け入れない弱さ、人に心を閉ざしてしまう弱さ、苦手なことはすぐにあきらめてしまう弱さ、間違いや失敗を人のせいにする弱さ、自分の考えや意見だけが正しいとする弱さ、堂々と物を言えない弱さ、人を憎んだり、妬んだりする弱さ、様々な弱さが私たちの中にはあります。
このような弱さを素直に受け止めたときに、神の恵みが働いて、私たちはイエスへの信頼を深めていくことができるのではないでしょうか。そしてそれによって、少しずつ霊的な人間へと変わっていくことができるのではないでしょうか。
私自身、自分が抱えている弱さを素直に受け止めるために何とかしたいと思っています。それはいまだに教会での働きや成果を自分の力や努力によるものだと思ってしまう“傲慢”なところがあるからです。
ですから、使徒パウロのように「私は弱いときにこそ強い」と思える境地に、信仰をもって辿り着けたら幸いです。
(教会報「コムニオ」2024年5・6月号より)