信仰を考える

先日、「信仰」について考える機会がありました。信仰とは何でしょうか。辞書を引きますと、「神や仏を信じること」と書かれていますが、それだけでは信仰の本質を捉えていないように思います。なぜならば、信仰は必ず行いや態度に反映するものであるからです。ですから、それを真剣に実行して生きなければ、私たちキリスト信者は、本当の信仰に辿り着くことはできないでしょう。
洗礼を受けたからと言って、必ずしもその人が信仰に生きているとは言えないかもしれません。洗礼を受けた人の中には、〝あこがれ″に留まったままの方もいると思います。私自身、洗礼を受けたばかりの頃、信仰があったとは思っていません。それは何も分からずに勝手気ままに生きていたところがあったからです。もちろん誰も人の信仰を量ることはできませんが、でも私たちはみんな自分で宗教を選んだ限り、生涯をかけて信仰を追い求めて生きていかなければなりません。

以前、私が担当していた教会で洗礼を受けたばかりの中年男性がいました。彼は教会でトラブルを起こし、教会から離れていきました。その原因は、教会でお願いした仕事に対して気にいらないことがあって、他の信者や業者と揉めたからです。残念なことですが、この男性は短気な気質であったので、他者の間違いや失敗を許せない心があったのでしょう。正直、受洗前に心配はしていましたが、案の定、信仰にたどり着く前に、あこがれすら失ってしまったように思います。

持論になりますが、信仰において大事な点が三つあると思います。一つは「柔軟性」です。信仰を生きている人は、様々なことに柔軟です。自分の考えや思いだけを押し通すことなく、人の意見や考えを尊重して受け入れることができるからです。
信仰において大事な点の二つめが、特に幼児洗礼の方にあてはまると思いますが、「自分の意志で、自分の足で教会に来ること」です。また一過性のようにそのときの気分で教会に来るのではなく、常に教会の大切さを分かっていて、行きたいという思いを常に持つことが信仰を生きることになるのではないでしょうか。
そしてさらに三つめが、「教会の仲間と交わりをもつこと」です。教会は共同体です。自分と神だけの関係で救われていくものではなく、一緒に救われていこうと思う人たちの集まりです。ですから、教会活動や行事などにも参加して、共に歩んでいくことが信仰を生きることでもあります。

私たちはこのように「信仰」というものを行いや態度をもって、証ししていくことが大事になってくるでしょう。つまり信仰は理屈ではなく、使徒ヤコブが手紙で「信仰」と「行い」について書き残しているように、「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いが無いなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか」(ヤコブ2.14)と。
私たちが本当に神の救いに与るためには、行いと態度をもって、生きた信仰を証ししていくことが必要ではないでしょうか。

                          主任司祭 西本 裕二

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