7月に入って、ドンボスコ社製の「教皇カレンダー」をめくり、教皇の写真を見ると、いとこの高齢女性と食事を囲んで二人でにこやかに写っているものでした。
この写真を見て、思ったのが教皇フランシスコの人間味あふれる素顔です。またユーモアもあり、貧しさを大切にする教皇でもあります。
話は変わりますが、今、現存しているかわかりませんが、私の神学生の頃、サレジオ神学院の地下音楽室に現在、菊名教会の管理責任者をしている小笠原優神父が若い頃にお描きになった人の等身大ほどある大きな絵がありました。その題材は、確かイエスが2人の漁師の弟子たちの肩に腕を回して共に歩く姿でした。そして何よりも素晴らしいのがその弟子たちと共に歩くイエスの顔が微笑んでいることです。
私はこれまで微笑んでいるイエスの絵や像を見たことがありません。ですから、私が見てきた絵の中で、この微笑むイエスの姿が一番気に入っています。それは人間味あふれるイエスの姿がイメージできるからです。
実際のイエスもマリアさまや弟子たちの前では、きっとよく微笑んでいたように思います。ところが聖書を読むとイエスが微笑んでいる描写は一つもありません。そのため多くの方は、イエスの苦悩に満ちた表情や厳格に生きる姿をイメージしているのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、イエスの当時のユダヤ人たちがイメージしていた怒りの神、裁きの神といった御父である神の姿と同じです。でもイエスがこの世に来られたのは、御父である神の本来の姿はそのようなものではなく、お父さんのように優しく、親しみがあって、憐れみ深い方であるということを示すためでした。
ですからイエスの姿も直接かかわった弟子たちや民衆からしたら、きっと親しみや温かみがあって、笑顔やユーモアなどを持っていた方であったように思います。そして、そうであったからこそ、多くの人たちはイエスを慕って従ったのでしょう。
私たちもイエスの当時のユダヤ人たちのように、怒りの神、裁きの神といったイメージでイエスを見るならば、私たちの心には、愛や憐れみの心はありません。私たちはイエスが優しく、憐れみ深い方であると思っているからこそ、人に優しく、愛を示すことができるのです。
ですから、私たちも微笑みやユーモアといった人間味ある姿を通して、出会う人に、真のキリストの姿を証ししていかなければならないのではないでしょうか。
主任司祭 西本 裕二