今日は「世界宣教の日」です。今回のシノドスのテーマにも「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教」とありますように、「宣教」が強調されています。それはカトリック信者ならば、誰もが分かっているように「福音宣教」がすべてのキリスト信者の使命であるからです。つまり、私たちが常に考え、実行しなければならない大事な働きであるということです。

私は以前、一人の高齢男性にカテキズムを教えているとき、その方から「なぜ福音宣教というものをやらなければいけないのですか」と質問されたことがあります。それはきっとその男性が高齢だから自分は洗礼を受ければ十分だと思ったのでしょう。
神はあえて、ご自分で行わず、私たちを通して、誰かを導くことを計画されています。つまり神は、出来事だけでなく、人を通しても、救いへと導かれるのです。これは〝神秘″であり、〝神の壮大な計画″でもあると思いますが、ただ言えることは、神はご自分がやりたくないから私たちを遣わすのではなく、私たちもそれぞれ福音宣教という働きを通して、救おうとされているのです。

人が人を通して導かれていくためには、その人が立派な人格で、活発な人でないといけないわけではありません。人を通して導かれる場合、不思議と様々なタイプの人がいます。ある人は真面目な性格の人によって、キリスト教に誠実さを感じて、教会へ行ってみようと思うでしょう。またある人は、大雑把な性格の人によって、あの人が通っているなら、自分も大丈夫だと思い、教会へ足を運ぶ人もいるでしょう。そしてまたある人は明るく、活発な性格の人によって、活動に誘われ、お手伝いをしているうちに教会に関心を持つ人もいるでしょう。信者の中で、誰かをとおして導かれた方で、私が知っている人を考えてみても、千差万別で、みんな様々なタイプの人によって導かれています。また福音宣教は若いからできて、高齢だからできないというものでもありません。実際、私の知り合いで、高齢信者の女性ですが、教会バザーに友人を誘って、それがきっかけでその友人は洗礼を受けています。

ですから大事なのは、その人の持っている個性や能力などを福音宣教のために最大限に活かしていくことではないでしょうか。
私が信者になって良かったと思うのは、神が自分の個性や能力などを活かしてくださっていることです。これは福音宣教のおかげでもあるように思います。もし自分が信者になっていなかったら、人のために自分の個性や能力を活かそうとは、全く考えなかったでしょう。しかし今は、自分がイエスという方を知って本当に良かったと思えるので、他の人も導かれてほしいと心から願っています。

福音宣教の本質は、使徒アンデレがフィリッポにイエスを紹介したように、誰かにイエスを紹介したいという思いや熱意があって実現するものではないでしょうか。どうぞ皆さんもそのような思いや熱意をもって福音宣教に取り組んで頂きたいと思います。

主任司祭 西本裕二

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