私は年を重ねて、食べ物の嗜好がだいぶ変わってきたように思います。油物は苦手になって、さっぱりした物が欲しくなります。また若い頃は食べ放題に魅力を感じていましたが、最近は量より質に変わり、美味しい物、好きな物を味わって食べるようになりました。

今年も「聖書週間」に入ります。「聖書を味わう」という言葉があります。聖書を味わうとは、食べ物を噛みしめ、楽しむのと同じようなものかと思います。ですから、その楽しみ方は、食べ物と同様に五感を使います。視覚で聖書の言葉に目を留めるだけでなく、聴覚を使って司祭が話す聖書の言葉を聞き、手で書くという触覚(ちなみに私は文字としてPCなどで打ち込んでいます)に加え、旧約では、臭覚を使う香りは「祈り」を意味します。ですから祈りをもって聖書の言葉に耳を傾け、そして味覚として噛みしめて読むことで、聖書が教える人間の苦しみや悲しみ、そして喜びなどを実感し、体験することができます。

そして聖書を味わうとき、さらに必要なものがあります。それは一種の六感とでも言いましょうか。キリスト信者の六感は、霊的な感性(信仰の心)で読んでいくことです。この霊的に読むことが一番大切ではないかと思います。聖書はこのような様々な感性で味わうことによって、その深みや面白みなどを感じ取ることもできるのではないでしょうか。

私自身の聖書の味わい方は、例えば説教のために福音書を読むとき、一度さらっと読みます。それから特にイエスの言動によく目を留めます。そこからポイントを決めて、キリスト信者の生き方に照らし合わせて、どんなメッセージに繋がるかを考えます。それから更にじっくり自分自身や社会の出来事を振り返って、自分が体験したことや世間の話題などに繋げて、話を考えていきます。そこで私が大事にしているのは、自分が決めたポイントを祈ったり、調べたりして、しばらくの間、考えることです。この時間が大切だと思っています。

説教も食事と同じで、司祭があれもこれもと沢山のことを信徒に伝えよう、話そうと思うならば、皆さんはそれを聞くだけでお腹がいっぱいになってしまうのではないでしょうか。ですから、私はあえて話すこと、つまり伝えることは「一つ」にしぼっています。

話は変わりますが、教皇フランシスコは、2018年2月7日の一般謁見演説の中で司祭に向けて、「説教は十分に準備され、簡潔で短いものでなければなりません」と言われました。教皇ご自身、その説教は短く、聖書を分かりやすく説明する方であると思います。私は教皇の説教を日本語になった文書でしか見ることがありませんが、それらを読みますと、とても深く、考えさせるものがあります。それで時々、印象に残った言葉を書き留めています。つまりそれは教皇が聖書をしっかり味わって読み、よく準備されているからではないかと思います。このような教皇の姿から学ぶことは、〝 聖書を味わうことは、神の思いをしっかり人に伝えることでもある″ということです。

主任司祭 西本裕二

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