教会は、2月22日「聖ペトロの使徒座」を記念しました。
この日のミサの福音朗読箇所でエルサレムへ向かう途中でイエスが弟子たちに対して「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」尋ねています。
しかしイエスは弟子たちに対して、単に人々のうわさを聞こうとされたのではないでしょう。なぜならばイエスは「それでは、あなたがたは、私を何者だと言うのか」と弟子たちにも答えを求めているからです。それに対して、弟子たちを代表して「あなたはメシアです」とペトロだけが自分の考えをはっきりと伝えます。
私たちもこのペトロのように、大事なことにおいて、しっかりと自分の考えや答えを持っているでしょうか。「人がこう言っているから、本でこう書いてあるから、私もそう思う」といったように、自分自身の考えをしっかりと持たない人は、何事においても本質をつかむことができないと思います。信仰においても同様で、知識や願望だけあっても、自分自身の考えを持たなければ、神という方をしっかりと捉えることができず、いつも漠然として、自分の生活と信仰というものが結び合わされないまま、毎日を過ごしてしまうかもしれません。
私自身、キリストという方をどう捉えているかということで、以前あった出来事で後悔していることがあります。それは母親を亡くしたときに、家族はキリスト教ではありませんので、斎場において、仏式で葬儀が行われ、お坊さんを呼びました。そのお坊さんは珍しく女性の僧侶の尼さんでした。
ところが、その方が、私がカトリックの神父であることを知ってか、葬儀の後、待機室で向こうから声をかけてきました。そこで30分ほどお話をしました。けれども、その尼さんは非常にキリスト教に詳しく、私にいろいろと質問してきました。聞くところによると、彼女はカトリックの高校を卒業してから仏教の大学へ進んで、僧侶の道を歩んだということです。
この尼さんの質問の一つに「キリストという方はどういうお方ですか」という本質について聞かれたとき、私は叙階して1年足らずでしたので、少しカッコつけてしまって、自分の知っていることをペラペラと余計なことばかり並べ立てて話したので正直、上手く伝わりませんでした。
メシアとしてのキリストの姿、そして自分はどう信じているのか、ということをしっかりと言えなかったということです。私は自分が上手く伝えられなかったことに対して後悔しているのではなく、自分の信じているものを自分の言葉で堂々と語れなかったことが一番の後悔でした。
しかしこのような私も、ペトロの率直さと勇気には、励まされるものがあります。彼は、人間的な弱さを持ちながらも、自分の考えをはっきりと伝えたからです。
ですから、皆さんもペトロのように、自分が心から信じているものを自分の言葉でしっかりと語り、伝えていくように致しましょう。
主任司祭 西本裕二