教会の聖人と言われる人の中には、貴族、上流階級、官僚、事業家など裕福な家の出身者が多いように思います。アシジの聖フランシスコと聖クララ、聖ベネディクトと聖スコラスチカ、聖セシリア、聖アガタ、聖イグナチオ・デ・ロヨラ、聖アルフォンソ・デ・リゴリ、聖アグネス、聖タルチシオ、アビラの聖テレジア等々です。すべての名前を挙げたら相当な数になるかと思います。
では、なぜ聖人たちは、裕福な家の出身でありながら、人に奉仕して、生涯を神に捧げるような素晴らしい生き方ができたのでしょうか。
聖書でイエスたちと共に行動していたマグダラのマリア、クザの妻ヨハンナ、スサンナの三人の女性は、「持ち物を出し合い、奉仕していた」(ルカ8.2-3)と記されているように、彼女たちはイエスたちの活動を助け、支えていた人たちと言えるでしょう。クザの妻ヨハンナなどはヘロデの資産管理人の妻で、裕福な環境にあったと言えます。現代でも苦しんでいる人を助け、奉仕している人の中には、裕福な環境にある人がよくいます。
マザー・テレサが貧しい人たちのために活動していた最初の頃、それを助け、協力するために彼女のもとに集まって来た人たちの中には、彼女が学校で教えていたときの生徒で裕福な家庭の女性たちがいました。そして彼女らはマザー・テレサと働くうちに、彼女と共に生きようと決心し、シスターになります。
しかし、そのような人の中には、裕福で時間があるから奉仕しているわけではなく、人の痛みがわかるからこそ奉仕している人もたくさんいます。
このように神や人のために奉仕し、生涯をかけて生きるために必要なことは、パウロがガラテヤの教会への手紙で「イエスのもとにあっては、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もないのです」(ガラテヤ3.28)と言っているように、どんな環境に生まれ育ったとか、どんな身分かは関係ありません。むしろ、もっと人間の内面にあって、人の痛みがわかるかどうか、ということにあるのではないでしょうか。それは奉仕というものが、自発的な働きであって、喜んでやっていかなければならないものだからです。
実際、裕福な家の出身者である聖人たちの多くは、家庭において愛情や信仰心が育まれ、それで人の痛みがわかるようになって、奉仕の道を歩んでいます。
私たちも聖人たちのように、日々の生活の中で人から受けた様々な良いものを通して、人の痛みがわかる者となって、喜んで人に奉仕していくように致しましょう。
主任司祭 西本裕二

