協力司祭 榎本 飛里
ようやく秋らしい日々がやってきました。すこしホッとしています。夜空を見上げ、月の美しさを堪能する余裕も出てきたりして…。秋の夜長、お好きですか?日本人が「月の満ち欠け」を楽しむとき、ただ美しさに見とれているだけではなく、季節の移り変わりの儚さと収穫の喜びを味わい、また、日々姿を変える月に人生の機微を読み取るなどして、色々な思いを巡らせているのではないでしょうか。
なぜ月は満ち欠けを繰り返すのでしょうか。いえ、天文学の視点から仕組みを問うている訳ではありません。なぜ神は、満ち欠けを繰り返す月をわたしたちに与えられたのでしょうか。いえいえ、天地創造物語の「第四の日」を再確認しようとしている訳でもありません。なぜ神は「月を見て、美しいとか寂しいとか懐かしいとか思える心」をわたしたちに与えられたのでしょうか。神さまのアッシステンツァはいつもそう。直接正解を与えることはせず、ヒント(考える材料)だけを与えて、あとは自分たちで何がしかの真理を見出すまで、忍耐強く待っておられるのです。
わたしたちは神から出てきたので、神の完全性に対するあこがれを拭い切れません。しかし、神は人を「ご自分に似せて」お創りになると同時に、「不完全に」創られました。人は神の完全性に胸を焦がしながら、自己の不完全性に苛まれ続けることとなります。「んもう、神さまのイケず!神さまが私たち人間を、最初から完全な者として拵えてさえいれば、こんな辛い思いをしなくても済んだものを!」と考える人も出て来るかも知れませんね。
そのような人には「満ち欠けの無い月」をプレゼントしてあげましょう。金輪際空腹を感じないお腹・一生眠くならないからだ・いつでも必ず100点が取れる試験・絶対にOKの貰える愛の告白・期待値100%の宝くじ…。チョッとしつこいですか?ごめんなさい。もうお判りでしょう。神さまが人間に「欠けた部分」を、それもふんだんに与えて下さっていることの旨味を理解しましょう。
欠けることを恐れるよりも、満たされる未来に希望を架けましょう…。
(教会報「コムニオ」9・10月号)

