私は週日の朝、教会に来るために修道院の駐車場に向かうとき、サレジオ学院の登校中の生徒たちを見かけます。その際、私はすれ違う生徒に「おはよう」と声をかけますが、そのときは、たいてい返事をしてくれます。けれども生徒の方から声をかけられることは、ほとんどありません。それは私が学院で働いていないので、誰だかよく分かっていないからだと思います。それでも私は、挨拶を続けていこうと思っています。それは「挨拶」が単に教育的に良いとか、マナーとして重要ということではなくて、それ以上に大事な意味があると思うからです。
イエスご自身、使徒たちを派遣するにあたり、「その家に入ったら、平和があるようにと言いなさい」(マタイ10.12)と言われました。実はこれはユダヤ人たちにとって、特別なことを言っているのではありません。ユダヤ人は誰もが「平和があるように」(ヘブライ語でシャローム)という言葉で挨拶するからです。
つまりイエスは、使徒たちに対して、挨拶するときは誰にでも心を込めて、行うことを求めたのではないかと思います。
家を訪ねるとき、誰かと出会う時、心を込めて挨拶をすることは、相手の幸せを願うことであり、それを基本として人間関係というものが育まれていきますので、挨拶は本当に大事なもので、人間として欠かせない行為だと思います。
イエスは、私たちがキリスト信者だからといって、特別な挨拶を求めているわけではありません。当たり前の言葉で、相手の幸せを願って、挨拶をすることを求めておられるのです。
初代教会においても、パウロが手紙の最初に「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように」(1コリント1.3、フィリピ1.2)などといったように挨拶の言葉をよく使っています。
このようにキリスト教は、挨拶というものを信仰生活において、大事なものとして位置づけているということです。
では教会が行う挨拶は、どのような意味があるのでしょうか。それは一般の挨拶とは違います。幸せでありますようにとか、平安がありますようにといったように相手の幸せを願うことも確かに含まれていますが、教会が行う挨拶は、何よりも「神の祝福」を願うものであります。
つまり「平和があるように」とは、「神の望む平和がその人に訪れますように」と願うことです。平和こそ、神の祝福であり、願いであるからです。
ですから口先だけの挨拶では、本当の平和というのは訪れないでしょう。だからその言葉の中に相手の幸せを願うことが必要です。そのような意味で、私はこれからも挨拶を大事にしていこうと考えています。
主任司祭 西本 裕二

