「寄らば大樹の陰」ということわざがあるように、人間、自分より強い者、力ある者に頼る傾向が見られると思います。
バビロン捕囚以後、イスラエルの民の間では、メシア待望が高まってきました。その内容は、理想の王であったダビデの子孫として現れ、イスラエルを解放してくれる強い王のようなメシアを期待していたのです。
使徒たちも最初、イエスに対して強い王としての姿を求めていました。イエスが王座に着かれるとき、ヤコブとヨハネの兄弟はその両脇に座ることを願い、他の使徒たちがそれに腹を立て言い争っている描写(マルコ10.35-45)からもそれがうかがえます。
史実性は乏しいと言われていますが、聖クリストフォロスという伝説的な聖人がいました。日本の文豪、芥川龍之介は、最初の『煙草と悪魔』などキリシタン物を16作品も書き、その中でも傑作と言われたこのクリストフォロス伝を翻案した『きりしとほろ上人伝』という小説も書いています。それほどクストフォロスは、多くの人に親しまれている人物であると言えるでしょう。
彼は、カナンの上流家庭に生まれ、ローマ皇帝デキウスの迫害のとき殉教したと伝えられています。大男でとても力持ちであった彼は、世界で一番強い王に仕えることを望み、その王に出会えることを待ちながら、旅人を背負って川を渡る仕事をしていました。そしてある暴風の夜、子どもの姿をしたキリストを肩に乗せて川を渡り、真の王とは誰かを悟ります。このときから彼はクリストフォロス(ギリシア語で「キリストを背負う者」という意味)と自分で名乗るようになりました。
キリストは、誰よりも力があって強いので、「王」と呼ばれているのではありません。使徒たちやクリストフォロスが小さく弱い人間の中に王の姿を見たように、真の王は、多くのユダヤ人がメシアとして待望したこの世の王のように強い力と権力をもった者ではなく、優しく、愛をもって人間を励まし、憐れむ方であるからです。
そして誰よりも偉大で真の権威をもった方であるにもかかわらず、私たちを力で従わせることはなさいません。これこそが真の王の姿であると言えるでしょう。使徒たちも、クリストフォロスも、それを悟ったからキリストを王として受け入れ、喜んで従ったのではないでしょうか。
私たちもキリストの姿の中に、真の王としてのメシアの姿を見ていかなければなりません。そのためにキリストにならって、愛と憐れみをもって、人に仕えて生きなければならないと思います。
参照:WEBラウダーテ(聖人カレンダー7月2日聖クリストフォロス)
KOAJ(カトリックの宣教と『煙草と悪魔』芥川龍之介)
主任司祭 西本 裕二

