主任司祭 西本 裕二

クリスマス、3人の博士たちは、幼子イエスに贈り物を携えて来ました。そして黄金、乳香、没薬を捧げたとあります。これらは当時、とても高価な物で彼らにとって最高の贈り物であったと思います。

聖書の中で、イエスという方は、どちらかと言えば、人に与える側の印象が強いと思います。飢えた人にパンを与え、病気の人に癒しを与え、救いを求める人にみ言葉を与えるなど、イエスが何かをもらうというイメージはほとんどありません。

私たちは神から多くのものをいただいています。では私たちの方から神に対して、何を「あげたら」よいのでしょうか。

ユダヤ人たちは昔、初物を捧げることによって、神への信仰を表しました。小さな民族であったイスラエルの民を神が顧み、エジプトの奴隷状態から救い出し、新しい土地へと導いてくださいました。それに対して彼らは神から与えられた土地を耕し、作物を育て収穫を得ました。

でもこれらは自分たちの力で得たものではありません。すべて神からいただいたものであります。彼らはそれが分かっていたので、収穫したものはすべて神に捧げたのです。これがユダヤ人たちの信仰でした。

博士たちは、贈り物を幼子イエスに渡しました。夢のない話かもしれませんが、実際のところ、神は人間から何かをもらうことを本当に望んでいるでしょうか。あるいは必要としているでしょうか。望んでいないし、必要ともしていないでしょう。それはすべてのものが神から与えられたものだからです。

ですから神は、ご自分が与えられた様々な恵みを人間が忘れないでほしいと願っているのではないでしょうか。なぜならば人間がそれを忘れたとき、傲慢になり、滅びへの道を歩んでしまうからです。つまり神は、私たちの誰一人として滅びることを望んでいないということです。これが神の愛、親心です。それだから、私たちは父である神の思い、み心を知ることが大事です。

神は、私たちが願う前から必要なものはすべて分かっています。それでも私たちは神の前に立つべきだと思います。それは神がご自分を慕う人間の気持ちや信じる心というものを求めているからです。

博士たちの贈り物は、幼子イエスにとって本当に必要ではなかったかもしれません。しかし彼らのイエスを思う気持ちと信じる心を宝物として受け取ったと思います。このような精一杯の思いや誠実に求める心といったものが、神への最高の贈り物、捧げものになるのではないでしょうか。

実際にあった小さな話ですが、経済大国と言われるこの日本では、貧困家庭が増えていると言われます。そのような中で、ある貧しい母子家庭の親子がいました。お母さんは二人の子供を育てるために仕事を掛け持ちして懸命に働いていました。経済的に貧しく、余計なものを買う余裕がありません。ですから子供たちに毎年クリスマスプレゼントも誕生日プレゼントも買ってあげることができなかったそうです。

しかしある年、そのお母さんは、何もしてあげられない子供たちが可哀想で、少し貯めていたお金でクリスマスに暖かい手袋を一つずつ買ってあげました。

ところが上の子は学校で友だちからクリスマスに何をもらったかを聞かれると、この子供は正直に手袋と言いました。するとクラスのみんなが笑いました。

でもこの子供は、お母さんが一生懸命に働いて買ってくれたことを知っていたので、笑われても必死に我慢していたということです。

子供たちは本当にうれしくて、ありがたかったのだと思います。つまりその手袋は、お母さんの思いがいっぱいにつまった贈り物であったということです。そしてこの親子のように相手を思う心こそ、3人の博士がもっていた心であったと言えるでしょう。

私たちも神に対して、何をあげようか、何をしようかと考えるでしょう。たとえば良いことをして神を喜ばせるとか。しかし良いことをしても、ただそれをやることだけが大事なのではありません。

「どのような心で行うか」ということが大事であるかを3人の博士たちやこの貧しい親子は教えてくれています。そしてそれが、一番神に喜ばれること、神への最高の贈り物になるということも教えてくれています。

私たちも何をあげるか、何をするかではなく、神のために、どんな心でそれをするかということをつねに考えながら行動するように致しましょう。

                               

(教会報「コムニオ」11・12月号)