今回は「聖年」の司牧的な可能性に関して述べましょう。「司牧」とは「パストラル」という言葉を意味しており、羊飼いであるキリストが相手を丁寧に導いて護る姿勢を指します。言い換えれば「相手をはぐくむこと」です。
「聖年」を過ごしてキリストとの出会いをいっそう深く実感した私たちも「相手をはぐくむ」姿勢を洗練させる努力を積み重ねました。そして今後は、どのような可能性があるのでしょう。それゆえ「聖年」が意図していた可能性を紹介しましょう。その際、⑴時間的な可能性、⑵空間的な可能性、⑶心情的な可能性という三つの側面から考察を加えます。
⑴時間的な可能性——あらゆる世代のキリスト者の人生でなるべく多く免償の機会を提供する工夫 歴代の教皇は「聖年」を設定することで、あらゆるキリスト者の救いの旅を支える努力を積み重ねてきました。当初50年に一度開催された通常聖年の記念行事は、次第に25年に一度開催されるように年数を早める工夫がなされました。それにより、一層数多くのキリスト者たちが神の慈愛のわざに参入することが可能になりました。
通常聖年の開催が50年に一度である場合、人生で一度だけしか免償の機会を得られません。しかし25年に一度の開催である場合は、少なくとも二回あるいは三回は免償の機会を得ることができます。教会は常にメンバーの救いの機会を増やすほうに組織の在り方をあらゆる場面で刷新を続けてきましたが、「聖年」の開催時期を頻繁に設ける工夫も教会の温情の仕儀によるものです。そのうえ25年周期には当てはまらない随時開催の「特別聖年」も折りにふれて行われたので、免償の機会が増えました。
⑵空間的な可能性——巡礼指定教会の広がり それから、ローマの四つの巡礼指定大聖堂以外に巡礼することも、教会による工夫のおかげで可能となりました。教皇と教皇庁による取り計らいに沿った各国の司教団の配慮によって各国の国内版の巡礼指定教会の名称が公表されることで、諸事情で海外に出向くことができないキリスト者たちも巡礼を成し遂げることができるようになりました。この工夫もまた、より一層数多くのキリスト者たちに免償の機会を幅広く得させるための教会の温情による配慮です。
⑶心情的な可能性——「旅する神の民」としての自覚をもって信仰生活を深めるための回心の実現 教皇フランシスコは今回の通常聖年の主題を「希望の巡礼者」として定めましたが、世界中の絶望的な状況からの脱却のための歩みを決意する機会をあらゆるキリスト者に提供する意図があるでしょう。つまり、あらゆるキリスト者が希望をいだいて巡礼することで、この世の砂漠状態の絶望的な生活から脱出する動きをいち早く創り出すことになります。こうして、教皇は世界の状況そのものを善意にあふれた生活の場に転換させようと考えているのかもしれません。聖年における巡礼の歩みは、キリスト者各自の心の底において心情的な変化をもたらします。絶望から希望へと前向きに過ぎ越そうとする意欲をかきたてる行事が「巡礼」なのです。
「希望の巡礼者」は「旅する神の民」とも言い換えることができます。第二バチカン公会議の『教会憲章』における教会共同体を理解する際のキーワード(鍵語)としての「旅する神の民」の団結と助け合いの善きわざを世界全体に輝かす「世の光」としての教会共同体の特長を自覚し直す機会として、2025年の通常聖年が大きな役目を果たすことになります。それぞれのキリスト者が「旅する神の民」としての自覚をもって信仰生活を深めるための回心を実現する場が巡礼指定教会です。そこでの真剣な痛悔の祈りとゆるしの秘跡への向き合いと決意表明が償いの免除と結びついて神の慈愛につつまれる感謝のひとときとなるのです。
完

