26聖人

パライソ、パライソ

今週2月3日に「福者ユスト高山右近殉教者」、2月5日に「日本26聖人殉教者」と日本の殉教者の記念が続きます。日本26聖人は長崎の西坂で磔にされ殉教していますが、高山右近は殺されて殉教したわけではありません。身分を捨て、キリスト教弾圧にも屈せず、信仰を貫き通し、フィリピンへ追放となり、疫病でこの世を去りました。このような波乱万丈の生き方から教会は彼を殉教者としました。

「殉教者」と聞きますと、暗い悲惨なイメージを持つ方が多いと思います。しかし日本の殉教者を考えますと悲惨な中にも希望のあるイメージを持つことができます。
それは彼らの姿には、暗い悲惨なイメージからかけ離れた「喜び」があったからです。日本26聖人が西坂にたどり着くと、そこには悲しみはありませんでした。そして殉教に向かう際、彼らは聖歌を歌い喜んで死んでいきました。
高山右近もキリストへの信仰のために国を追われ、遠い異国の地にあっても、彼は最後まで喜びのうちにあってこの世を去りました。また他の日本人殉教者で、「パライソ、パライソ」「天国、天国」と叫んで死んでいった者も少なくありません。
では、なぜ殉教者たちに悲壮感があまり感じられないのでしょうか。それはきっと彼らがみんな、死が終わりではないということを知っていたからだと思います。人の寿命はそれぞれ違うし、死の迎え方も一人一人異なります。しかし万人に共通なのは、いつか必ず死が訪れるということです。だから大事なのは、どこに目を向けて生きるかということです。

私自身、教会の門を叩いた一番のきっかけは、死をとても恐れていたことです。しかし信者になって、死んで終わらない命がある。魂は生きると信じるようになったとき、死をあまり恐れず、通過点にしかすぎないと思えるようになり、生きることが喜びと希望に変りました。
死の先に復活という終わらない命がある。そこに目を向けて生きるならば、人間、最後のときが来ても、喜びと希望をもって迎えることができるのではないでしょうか。多くの殉教者の信仰がまさにそのようなものであったと言えるでしょう。

               主任司祭 西本 裕二