東京教区の菊地功大司教、前に鷺沼にいらした土屋茂明師の洗礼名はタルチシオです。研究社刊の新カトリック大事典にはタルシキウス(Tarsicius)で載っていますが、次のような説明がなされています。
3世紀から4世紀前半のローマの殉教者。聖人(祝日8月15日)アッピア街道のカリストゥスのカタコンベに埋葬された。教皇ダマスス1世は、老にいる信徒に聖体を届ける途上、異教徒の群衆に襲われ、聖体を守って死んだタルシキウスをステファノと並べて謳い上げた詩や墓碑銘を書いている。タルシキウスが祭壇奉仕者という説もある。ヴィエンヌのアドにより、殉教録に入れられ、ワイズマンの小説『ファビオラ』において脚色された形で著名になった。
初聖体の日に、あらためてご聖体について考えてみましょう。正教会では聖体の秘跡のことを聖体機密と表現します。『正教会の手引き』にはこう説明されています。
“聖体機密はキリストの体と血となったパンとぶどう酒をいただく機密です。キリストの体と血となったパンとぶどう酒のことをご聖体といい、ご聖体をいただくことを領聖(拝領)といいます。ご聖体を領聖することによって、罪の赦し、永遠の生命、キリストとの交わりといった恵みが与えられます”
フランシスコ教皇は講話の中で次のように説明なさっています。
“私たちは皆、洗礼によってゆるされており、そしてゆるしの秘跡を受けるたびにゆるされ、これからもゆるされるでしょう。どうか忘れないで下さい。イエスはいつだってゆるして下さいます。イエスはゆるすのが面倒になったりしません。私たちのほうが、ゆるしてほしいと頼むのを面倒に思ってしまうのです。まさしくこの秘跡がもつ真価を念頭に聖アンブロジオは訴えました。「いつも罪を犯している私は、いつも薬を持っていなければならないのです」と。
聖体拝領のために列をなして祭壇に向かってはいても、実のところ、ご自分と同化させようと、イエスが私たちに近づいているのです。イエスと会うのです。聖体で自らを養うとは、受けたもので変えていただくということです。
アウグティヌスは言っています。「私は大いなるものの糧です。成長しなさい。そうすれば私を食べられるであろう。あなたが私をあなたの肉の食物のように変えるのではなく、あなたが私に変わるのです」(告白録)
主任司祭 松尾 貢