2024年度上期をめどにデザインが変更される新紙幣の肖像画の一人5千円札の津田梅子(1862年~1929年)はキリスト者です。
梅子は幕末の農学者・津田仙・初子夫妻の次女として江戸に生まれ、明治4年(1871年)日本初の女子留学生として岩倉遣外使節団と同じ船で渡米しました。乗船者の半数以上は諸外国に留学する政府高官の子弟。その中に振袖、稚児まげ姿もあどけない5人の少女がいましたが、梅子が一番幼くなんと船中で満7歳の誕生日を迎えます。米国西岸に到着したのが1872年1月15日。大陸横断鉄道でワシントンへ。駐米日本弁務使館で書記官として働いていたC・ランメン夫妻が少女たちを預かりました。夫人の妹や横浜の宣教師ヘボンの兄も少女たちの面倒を見てくれました。鎖国の禁を犯して出国し米国に滞在していた新島襄はランメン家で梅子達と会ったことを下記のように書簡に綴っています。
“私の下宿は、日本から来た少女たちが滞在している宿舎に大変近いところにあります。昨日そのうちの二人に会いました。一人(吉益亮子)は15歳ぐらいで、もう一人(津田梅子)はわずか8歳です。後者は現在祖国で有名な役人になっている私の古い学友(津田仙)の次女です。彼女はこれまで会ったどの少女よりも可愛いくて才知に富んでいます。
二人ととても楽しい会話をし、ともに食事もしました。二人はまだ家族の中で話す言葉が理解できないので、私が会いに行くと喜んで会ってくれ、いっぱい質問をあびせます。とても私になつき、気後れせずになんでも質問します”
新島襄は少年の頃、6歳年上の仙とすでに蘭学所で知り合っていました。その後も仙は、米国にいる襄と日本の親族との間の手紙のやり取りの仲立ちをしていました。幕府に知られぬよう、米国から届いた手紙を宣教師バラに託されていたのでした。また、仙は後にキリスト者となり、梅子の弟二人を同志社で学ばせています。
ホストファミリーのランメンたちは、政府の言いつけを守り、決して梅子に信仰を勧めませんでしたが、梅子のたっての申し出を世話役の森有礼に伝えると、キリスト教に理解のあった森が了承、切支丹高札が撤廃された1873年、梅子は受洗します。梅子は津田塾女子大学を創立、また日本YWCAの初代会長になりました。武士の娘の誇りとキリスト教の奉仕の精神を終生持ち続けた62年の生涯でした。
主任司祭 松尾 貢