先日、仙台教区水沢教会の高橋昌神父様から小包が送られてきました。中には、水沢市立(現在は奥州市立)水沢南小学校の社会科の副読本のコピーが入っていました。
題は『南小三偉人伝-拓け、きらめくような夢を-』で、水沢地区が生んだ後藤寿庵、木村栄、高野長英の伝記が収められています。それぞれの偉人のキャッチコピーは、
- 後藤寿庵 祈りの開拓者 ―胆沢平野の開墾
- 木村 栄 きらめく星 ―緯度観測の父 Z項の発見者
- 高野長英 夢を追いかけて ―幕末をかけぬけた蘭学者
です。
後藤寿庵は伊達政宗の家臣で1200石の上級武士でキリシタン武将でした。研究者によれば、後藤寿庵は仙台藩政の中においては、外交(慶長遣欧使節)・軍事(大阪夏の陣への出陣)・内政(胆沢平野での開発や知行地内での農政)など、多方面にその足跡を残していると評価されています。その点を少し見てみましょう。
- 外交面 ― 伊達政宗が1613年にソテロと支倉常長をスペイン領メキシコ経由でスペイン、さらにはローマへと派遣した慶長遣欧使節の立役者として活躍。
- 軍事面 ― 1614年の大阪冬の陣、1615年の大阪夏の陣の際、後藤寿庵は伊達勢の陣立書に名を連ね、特に夏の陣では道明寺口では鉄砲百挺率いて活躍し、大阪方のキリシタン武将明石掃部の部下の処遇を配慮しています。
- 内政面 ― 寿庵の領地は扇状地で、宣教師の表現では“アラビアの砂漠”のようで慢性的な水不足にあえいでいました。寿庵は胆沢川上流の急流で大きな岩が多いところを宣教師たちから学んだ土木術と機械を使って堰を構築、水路を作り、新田開発に務めました。寿庵堰の功績と領民への年貢の減免の徳治で、現在も毎年寿庵祭が開かれる程、領民に慕われました。
キリスト者としても、水沢に教会を作り、キリシタン取り締まりの開始以降、禁教と取り締まりの内情を把握しつつ、司祭たちに伝え、匿い、殉教した切支丹の遺体の保護と埋葬、そして1621年に奥羽キリシタン17名がローマ教皇パウロ5世から励ましの書簡に対する奉答書に仙台藩キリシタン指導者として署判しています。
なお、寿庵についてはコム二オ10月号にも関連記事が載っています。東北が生んだすばらしいキリシタン武将の生き様に倣いたいものです。
主任司祭 松尾 貢