カトリックの著名な彫刻家・故舟越保武を父にもつ舟越桂氏。氏は、「武者小路実篤の形の違う二つのじゃがいもを描いた色紙に“君は君、我は我、されど仲良き”と書いてあるのを見た時、イヴ・クラインはイヴ・クライン、舟越保武は舟越保武として、二人とも本気で芸術をやっていたのだから、どちらか一方を認めて、他方を否定する必要はないと考えるようになった」とあるインタビューで述べています。続けて、「西洋のミケランジェロもすごいけれど、日本の仏像もすごい。特に運慶のリアリズムは自分に取り入れたいと思う要素が多く、顔のリアルさ、深い精神性といったものがどこから来ているのか研究課題です」と発言しています。
上野の東京国立博物館では「運慶」展(9月26日~11月26日)が開かれています。ある牧師さんは鑑賞後、下記のような文を記しています。“私は運慶と来場者のまなざしから夏目漱石の名作『夢十夜』にある「第六夜」のエピソードを想い起こしました。『夢十夜』は、漱石が十夜それぞれに見た夢のエピソードが語られる設定になっていて、「第六夜」では運慶が登場します。運慶が護国寺で仁王像を刻んでいるという噂を聞き、漱石は散歩がてら出かけます。そこにはすでに黒山の人だかりができていました。運慶は気にもとめず、一心不乱に木を削っています。漱石が思わず呟きます。「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と。すると野次馬の一人が応えます。「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り起こすまでだ」。それを聞いた漱石は心中思います。「彫刻とはそんなものか。はたしてそうなら誰にでも出来るはずだ」。漱石は試しましたが、何も出てきません。「第六夜」は次のような文で閉じられています。「ついに明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで、運慶が今日まで生きている理由もほぼ解かった」と。
物事には、現象構造に先行するイメージあるいはフォルムがある。運慶のような芸術家は現実世界に埋れている現象の奥に存在している何かを見い出しているに違いない。
「信仰によってわたしたちは、この世界が神の言葉によって形づくられたことを悟ります。これによって、見えるものは、目に見えないものから出てきたことを悟るのです」(ヘブライ書11章3節)
主任司祭 松尾 貢