パウロはコリントの信徒への手紙になかで次のように書いています。
「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(Iコリント2章2節)。
ここには一つの決意が語られています。イエス様についてさまざまな知り方があり得る。しかし自分は「十字架につけられたキリストしか語らないし、知ろうとも思わない」と。
マルコによる福音書第15章39節は、十字架の死の直後に何が起こったかを書き記しています。
“百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った”。
私たちもまた、この百人隊長のように信仰を言い表したい。そのためには十字架上のイエスの姿をみつめ、十字架上のイエスの言葉を黙想する必要があるようです。
教会の歴史、信仰の歴史において、「十字架上の七つの言葉」と呼ばれるものは、主イエスの受難を偲ぶ際はいつでも思い起こされ、心に刻まれてきました。
- 父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているか知らないのです。
- はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。
- 婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です。
- わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。
- 渇く。
- 成し遂げられた。
- 父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。
教会地下ホール奥に、四旬節の間、山崎絹さんの筆による「渇く」を飾りました。マザーテレサの修道会・神の愛の宣教会の全修道院の聖堂の正面の十字架の左下に、この言葉が掲げられています。マザーはこの言葉の中に深い意味を汲み取っていました。
私たちも、この十字架上の七つの言葉を黙想しながら、百人隊長のような信仰告白を行いたいものです。
主任司祭 松尾 貢