ミルトスという出版社から『天と地の上で』という本が出ています。教皇フランシスコがブエノスアイレスの大司教・枢機卿時代に、ユダヤ教のラビ、アブラハム・スコルカ師との間で交わされた対談集です。
初版は2010年。当時の著者名はホルヘ・ベルゴリオです。その中の第12章「高齢者について」の一部をご紹介しましょう。

ラビ:老いて知性を発揮する親を持つのは素晴らしいことです。成長した子との対話が成り立つのですから。私の父は年をとるにつれて冴えわたっていきましてね。尊厳に満ちた死の迎え方をも、私にとって計り知れない教訓となりました。誰もがそうなるわけでなく、心身が著しく衰退する場合もあります。いかに高齢者と向き合い、愛情をもって接するかは社会全体の大きな挑戦です。両親を敬うことが簡単にできるのなら、わざわざ神が戒律に挙げることもなかったでしょう。使い捨ての文化が根づいた現代社会には、高齢者に対する蔑みや排除の風潮まで現れました。

大司教:こういった話になると思い出すのが「申命記」26章です。≪私は、主が私たちに与えると先祖たちに誓われた地に入りました≫

この世に生まれたときには育ててくれる親がいて、祖父母が建てた家に住み、何代も前の先祖が植えた樹の実を食べ……と、われわれは人生の当初から先人の恩恵にあずかっています。

一人の老人を見ることは、その人の歩んだ道のりが私にもつながっているのだと認識することでもあります。神の壮大な計画の一部として、遠い祖先から子孫に至る流れのなかに目の前の人も存在しているのです。歴史が自分たちから始まっていると錯覚したとき、高齢者への尊敬が失われます。

しばしば気が滅入ると聖書を開きますが、立ち返る箇所の一つがこの章です。私も連綿と続く流れの一部を担っている。先人たちを敬い、後に続く者たちも彼らを敬うようになるよう、遺産を引き継いでいかねばならない。遺産の継承は老年期における最も強力な行為の一つではないでしょうか。意識的にせよ無意識にせよ、高齢者は人生の遺言を残す必要性を感じているものです。

主任司祭 松尾 貢
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