石庭で有名な京都龍安寺。その方丈の北東に銭型のつくばい(手水鉢)が据えてあります。茶室に入る人は誰もが目にするようになっています。口を中心に四文字が案配された絵文字「吾唯足知」(われただ足るを知る)と記されています。
パウロの言葉に、次のような言葉があります。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリッピ4章11~13)
聖書が教えるのは、ただ我慢して現状を受け入れなさいといっているのではありません。“わたしを強めて下さる方”が将来をも切り開いてくださるという希望が、いついかなる場合にも対処する秘密の力なのですよ、と教えているのです。
牧会書簡の一つ、テモテへの第一の手紙にも“足るを知る”ことの大切さが書かれています。
「確かに、信心は足ることを知る人々にとっては大きな利益をもたらします。わたしたちは、何一つ持たないでこの世に来ました。また確かに何一つ持たないで、この世を去ります。食べる物と着る物とがあればそれで満足すべきです。しかし、金持ちになろうと望む者は、誘惑の罠、愚かで有害なさまざまな欲望に陥ります。それらのものは、人々を滅びと破滅に沈ませます。金銭の欲は、すべての悪の根源です。ある人々は、金銭を追求するあまり、信仰から離れ去り、さまざまなひどい苦しみで自らを刺し貫きました」(テモテへの第一の手紙6章6~10節)
信心をご利益の道と捉えている人への警鐘としての言葉です。
「断捨離」という言葉が最近よく使われていますが、「吾唯足知」という4文字の意味することも思い出し、自分に与えられた職業、環境、人間関係を神様からの祝福と使命として受けとめ、お彼岸を前に、自分の今の生き方を見直してみたいものです。
ところで、新潟の「知足美術館」は“吾唯足知”の精神を広めることを意図してために作られた施設だそうです。