主の昇天に関する聖書の記述は実にあっさりしたものですが、意味深いものです。
- (イエスは)祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(ルカ24・50~53)
- 話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。……」(使徒言行録1・9~11)
ご昇天の場所にとどまるのではなく、現実に目を向けさせる記述です。ヨハネ福音書の中でも、イエス様は再三「私が去っていくのは、あなたがたのためになる」と繰り返されますが、それは弁護者である聖霊の到来の約束であるとともに、私たちが今の生活に目を向け、しっかりと自らの務めを果たすようにとの促しでもあります。
チマッティ師やその教え子タシナリ師がよく口にしていた言葉に「Age quod agis」というラテン語があります。「なすべきことをなせ!」 将来のことをあれこれ心配したり、過度に悩んだりせず、まず今自分が果たさなければならないことを精一杯果たすのだ、という勧めです。マザーテレサも言っています。「私たちはこの世では大きいことはできません。小さなことを大きな愛でするだけです」
今日は九時半のミサの後、防災訓練があります。「備えよ、常に」というボーイスカウト運動の創始者英国人バーデン・パウエルのモットーにならい、安全のため、そして、神と人への奉仕のために周りを配慮する目とそれに対応する心の柔らかさと迅速さを願いましょう。
主任司祭 松尾 貢