復活されたイエス様の第一声は、4人の福音史家によって違います。
マタイ「すると、イエスが彼女らの行く手に立っておられて、“おはよう”と挨拶された。」(28:9)
マルコ「それからイエスは言われた。“全世界に行き、全てのものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受けるものは救われ……”」(16:15)
ルカ 「すると、イエスは2人に、“あなたがたが歩きながら語り合っているその話はなんのことですか”と仰せになった。」(24:17)
ヨハネ「イエスは、“婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか”と尋ねられた。」(20:15)
何かの機会に「復活後の第一声なのだから、もう少し真面目に(?)復活の意味そのものに触れて欲しかった」と書いたことがありました。しかし、今は「かたちシリーズ」ですから、イエス様の“おはよう”には“魅力”を感じます。復活の朝、まだ暗いうちに、用意した香料を持って墓に駆けつけた婦人たちに、イエス様は“おはよう”と挨拶されたのです。それはイエス様にとって、小さい時から身についたごく自然の挨拶だったのでしょう。何故なら、「イエスは知恵も増し、背丈も伸び、ますます神と人とに愛された」(ルカ2:52)のですから、“気持ちの良い挨拶のできる”イエス様であったに違いないからです。
“あいさつ”は人と人を結ぶ絆です。イエス様は沢山の人たちとも、“あいさつをとおして”結ばれていたのです。イエス様のご生涯の中で、どれだけの人がイエス様と笑顔で挨拶をしたのでしょうか。東南アジアからの留学生に日本語を教えている先生が、留学生からよく言われるそうです。「どうして、日本の人たちは挨拶してくれないのだろう?」と。さて、私たちの鷺沼教会も「挨拶の声」が増えたら、もっとイエス様の教会になると思いませんか?