この秋の列福式は「ペトロ岐部と187殉教者」と命名されています。ペトロ岐部神父はこの時代の言わば、代表的な指導者ということができます。その岐部神父様がロ-マに滞在中の1622年3月12日、イグナチオ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式が「聖ペトロ大聖堂」で行われ、参加した彼はすぐさま、帰国の旅に出ました。イエズス会員であった彼にとって、創立者ロヨラと日本に最初に「キリスト教」を伝えたザビエルの列聖式は、彼の心に強烈なメッセ-ジを伝えたことでしょう。ここでは次の二つの点を考えたいと思います。
(1)イエス様の言葉「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか」(16:26)というマタイ伝の言葉です。実はこの言葉は、イグナチオ・ロヨラ(1491~1556年)がザビエル(1506~1552年)を陥落させた言葉でもありました。1525年10月1日、ザビエルはパリ大学の聖バルブ学院(寄宿制)に入学しました。ザビエル城主の父はナバルラ王家に仕える名門の金持ちであり、その6番目の末っ子として生まれたザビエルは、金があり才能にも恵まれ性格も明るく、なお且運動に優れていたので、すぐさま皆の人気者になりました。
パリ大学では、同郷のよしみで付き合いのあった二人でしたが、ロヨラは士官として従軍し負傷した経験もある先輩であり、闘病生活中、霊感によって悟りを開いて「司祭職」を目指しての勉学に勤しんでいました。若い時は富と名誉に憧れていたロヨラでしたが、「聖地エルサレムで、異教徒に福音を伝える」のを自分の大きな目標とし、実際に聖地巡礼をします。その時にはそこは福音を伝える環境にないので帰ってきましたが、「いつの日か、異教徒に福音を!!」の夢はこころの奥に大切に温めていました。そのための「同志」を集めるべく、学生を見ているロヨラに、ザビエルの才能と人柄はどうしても仲間に引き入れたい逸材に思えたのでした。しかし当時ザビエルは、ロヨラの若い時のように「富と名誉」に関心があり、手っ取り早い方法として「参事会の司祭から司教」への道を望んでいました。そんなザビエルに近づき、ロヨラは何回も何回も、キリストのこの「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか」を繰り返したのでした。
1534年パリのモンマルトルの丘で「イエズス会設立」のためロヨラの下に参集し、誓願を立てた七人衆の一人はザビエルでした。
(次週につづく)