1846年31歳のドン・ボスコはようやくオラトリオの少年たちを集めるための拠点をつくることができました。空き地や広場を見つけて、日曜日に何百人の若者を集め、ミサを捧げ、教理を教え、皆で楽しく遊ぶのですが、必ず住民たちからの苦情で立ち退きを命ぜられていたドン・ボスコは、ようやく自分の土地を持てました。これからはもう大丈夫という矢先に過労からくる肺炎にかかり、生死の境をさまようことになりました。このときオラトリオの子供たちが、どれだけ一生懸命神さまにお祈りしたのでしょうか、私はドン・ボスコの伝記の中でも、もっとも美しいエピソ-ドのひとつだと思います。子供たちはドン・ボスコの寝室に押しかけました。ある子は自発的に看病のお手伝いを申し出、他の子は病室の外の階段で一目あわせてくれるまではと待機しました。多くの少年たちは「せめて、病床が見えるように、少し扉を開けてください」と頼みました。そして多くの少年たちは近くのマリア様の教会に行って、一時間交代でお祈りする当番表をつくり、朝早くから晩遅くまでお祈りしたのでした。そしてその中の何人かの少年たちは、神様に「自分の命と引き換えにドン・ボスコに健康を」とお祈りしたのでした。ドン・ボスコの指導者で、友人でもあるボレロ神父は、ドン・ボスコに代わって子供たちの世話をしながら、そういう“願”は立ててはいけないと、子供たちに教えるのでした。でもドン・ボスコには子供たちの気持ちを伝えながら「病気からの快癒」を神に願うように頼むのですが、ドン・ボスコは頑として自分のための祈りを断るのでした。でも最後には「もし、神様の御旨なら病気を治して下さい」という意向なら、ということでドン・ボスコも了承しました。ボレロ神父は部屋から出て、外で待っていた会員たちに言いました。「大丈夫!ドン・ボスコのお祈りは、神さまを動かすだろう!」と。
1888年1月30日、ドン・ボスコが明白な意識を持って唱えたお祈りが「Fiat Voluntas tua」お告げの時のマリアさまのご返事「仰せの通りなれかし!」と同じだったのです。ドン・ボスコの生涯を貫いていた心の姿勢は「神の御旨のままに」だったのです。