大分空港から湯布院行きの高速バスに乗り黙想の家につきました。せっかくの6、7泊日の自由(?)ですから、教会のことも綺麗サッパリと忘れ、第一目的の「黙想」に専念しようと決意し、指導者のイエズス会士イバニエス神父様の講話を襟を正して聞き始めました。
そうしたら神父様は開口一番聖書の言葉を口にされたのです。「皆さん、詩篇の言葉を聴いて下さい。“あなたによって心は広くされ、わたしは戒めに従う道を走ります。”(詩篇119:32)私たち修道者は、生活の中心のイエス様で、心が一杯な人なのです。いま一杯でない人は、帰りには一杯である様にして下さい」と。いつもの通り私は聖書をひも解き、その場所を確認しました。詩篇119は「道」の詩篇といってもよいぐらい「道」が出てきます。読み進んでいくとよく耳にする言葉が出てきました。「あなたのみ言葉は、わたしの道の光り。わたしの歩みを照らす灯」(119:105)です。しばらくは「お知らせ」で「道」について考えていたので、この言葉はすごく私の心に響きました。
道を歩く時は、「何処に、何のために、誰と行くのか」で歩き方は随分違ってきます。例えて言えば、幼稚園の男の子がお母さんと2人で歩いている時と、ひげ面の中3の男の子がお母さんと歩いているときでは、ずいぶん様子が違うのではないでしょうか? 幼稚園の子ならスキップするでしょうが、中3の男の子がスキップしたとしたら……そうだ!! 「お知らせの道シリーズにこの話は使える。1回分の原稿ラッキー!!」と次から次と考えが発展するのでした。そして気がついてみたら講話は終わっていました。
でも「あなた=イエス様」によって心が広くされるとき、道を走ることができるということはシッカリと頭の中に叩き込むことができました。私たちが走れないのは“あなたによって心が広く”されていないからです。初代教会は、迫害の中での出発でした。何しろ創立者のイエス様が処刑されたのです。しかも十字架刑という極刑で。でもその迫害を乗り切れたのは“イエス様で心が広くなっていたからです。