最近、私がすごく納得している言葉があります。「一緒に遊ぶ家族は、一緒に成長していくものだ」というガブリエル・ガルボの考えです。(家族のエネルギー)
一人の人間の成長発達にあったも、人類の歴史上の発展にあっても「遊び」が大切な要素であることは皆が認めていることです。文化は遊びだといわれます。日本人が大切に育ててきた「習い事」も本をただせば全て遊びです。のどが渇けば「お茶」をグイと飲めば済むことを何故あっち向いてお辞儀をし、こっち向いてお辞儀をしなければならないのかなどと、正面から切り込まれたなら、答えようがないのです。「茶道」という習い事は「文化」であり、遊びだからです。私も学生のころ、青年会の女子学生に誘われてお茶の席に参加したことがありました。即席で作法を学び、着物姿の女子学生の手前、少しは上品に食べようと思い、その分だけ緊張したのかお皿の上の丸いお菓子を落としてしまい、それがコロコロと皆の真ん中まで転がったので参加者の笑いの的になってしまった苦い経験があります。今だったら「たかが遊びじゃない!!」で済ませてしまいますが、なにしろ純情無垢(?)な神学生ゆえ、真っ赤になったことを覚えています。
ところで、最近は暗いニュースの連続にうんざりしている人も多いことでしょう。あまりにも家庭内での、親子間での殺人が多すぎるのです。いろんな理由があるでしょうが、私には今の社会・家庭が余りにも真面目すぎるのではないかと思います。別言すれば遊びがなくなっているのです。車のブレーキと同じで、遊びがないから急ブレーキがかかり怪我をするのです。人間関係も遊びがないから、すぐに殺人まで行ってしまうのです。
「空の鳥を見よ! 蒔きもせず、紡ぎもせず……」の聖書の箇所を読むたびに思います。イエス様は、忙しいヨゼフ様のお手伝いに追われる日々だったでしょうが、でも聖家族みんなでチャント散歩したり、蟻んこの巣を見たり、お花の香りをかいだりしておられたのではないかということです。聖家族も一緒に遊びながら育っていったのです。