暦の巡りあわせで、元旦を除いて松の内に主日を迎えないまま過ぎてしまいました。お互い新年の挨拶もゆっくり出来なかったような気もします。一年の計は元旦にありとよく言われてきましたが、一人ひとりが自分なりの計を心に秘めてスタートを切ったことだと思います。
正月になるとよく思い出すことですが、わたしが修道会に入会した頃は、入門の期間(一年間の修練期と言いますが)が始まって何ヶ月すると、修道服をいただく「着衣式」に臨み、サレジオ会では特別の修道服がありませんので、一般の聖職者服(スータン)をいただき、その後はこれを朝から晩まで着用しますので、中身はまだまだですがあたかも一人前の修道者になったようなうれしい気分を少し味わうのです。
その着衣式では、今まで着ていた背広の上着を長上が脱がしてくださり、改めてスータンを着せながら「古い人とその行いを脱ぎ捨て、救い主の姿に倣う新しい人を身にまといなさい。」(コロサイ3,9)の言葉をかけてくださいます。先輩の話しではどこまで本当かわかりませんが、ある国の習慣は横にいる司祭がその上着を窓の外に投げ捨て、完全に奉献される姿を象徴的に表すそうです。最近、修道服やスータンがあまり常用されませんので、このような印象的な光景もあまりお眼にかからないようです。
わたしたちの生活では、このように外的に表された形というものも非常に重要なものではないかと思います。新年にあたって、普段は出かけることも無い神社や仏閣に多くの人が初詣に出かけるのも、新年にあたっての気分を引き締め、自分の決意を改めて固めながら神仏のご加護を求める慣わしからなのだと思います。自分の家にいて、あるいは寝床の中でも出来ないわけではありませんが、それはきちんと身を飾り、襟を正してお参りする時、外的にも内的にも確信が持てるのだと思います。
古い一年が過ぎ、感謝を捧げながら、今から始まる一年に皆さんは何を決意し、何を今年のプログラムとして神への道を歩もうと決意したでしょうか。あまり大それた、そして大まかな決心では毎日が無為に過ぎ去ってしまうことでしょう。そのためには、自分をよく見据えて、どこが古い人で、捨てるべき古い行いなのか、わたしにとって何がキリストのかなう新しい人間として身に付けなければならないかを考えた上での具体的な決意であってほしいと思います。
特に今日、成人式を迎え、大切な一歩を踏み出そうとする方々にこのことをよくわかってもらいたいと思います。そしてこの新成人のために皆で祈りたいと思います。