ドン・ボスコ社は、毎年色々な形のカレンダーや手帳類を発行していますが、その中でどれに一番力を入れているのだろうかといらぬ興味が起きてきます。わたしはその中で一番大判の「教皇カレンダー」と呼ばれる、毎月教皇様の写真を載せているものではないかと勝手に想像しています。他のものに比し、大きいところにその心意気を読み取っています。
もちろん今月号の「教皇カレンダー」は、今春帰天されたヨハネ・パウロ二世のお写真ですが、そのお姿に多くの黙想と信仰への示唆が読み取れます。見るところでは、ヘリコプターに乗っての旅ではないかと思われますが、座席の前にある小卓の上には、いつも着けておられる教皇マークのついた腰帯が畳んで置かれ、実にゆったりした気分で、窓から眼下に広がる氷河の世界を見やりながら、教皇様がロザリオを爪繰っている姿です。ロザリオの祈りをすることによって、神様との一致が深められている姿を呈しています。
日常において祈りの慣わしをつけるのは難しいと思われがちですが、「祈りを生活の一部にすることが難しいのは時間が足りないからではなく、気持ちの切り替えが難しいからです。家事や商売に忙殺されたあとで、心だけを祈りに向けてととのえようとしても、容易ではありません。しかし、指がロザリオの珠を繰りはじめれば、心もととのえられていくのです。」と祈りの学校の校長来住(きし)神父様は教えてくれます。(眼からウロコ ロザリオの祈りp4)亡き教皇様のゆったりした旅行中のロザリオを唱えておられるお姿は、正にこれを示してくれているようです。
もう一つ教えられます「ロザリオの祈りの特徴は、一回の祈りを純粋なものに深めようとすることよりも、回数を重ねながら祈りを深めることです。ロザリオの祈りは少々気が散っても気にしない祈りです。一回で百点をねらうよりも、一回が六十五点でも十回やれば六百五十点になるので、そのほうがよいというたくましさがあります。」(同書p30)
新しく光の神秘の黙想が加わり、イエスの救いの神秘にかかわる二十の諸場面を思い起こしながら祈ることにより、キリストの秘義との一致が容易におこなわれるようになり、それから発展して霊的読書やみ言葉の黙想に進み、霊的生活を高めていくことができます。
ロザリオにおいて「聖母マリアへの祈り」は最終的にはイエスに向かいます。聖パウロの教える「私にとって、生きるとはキリストであり。」(フィリッピ1,21)「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテア2,20)という聖性の境地が、カレンダーの亡き教皇ヨハネ・パウロ二世のお姿からも感じ取られます。