「喜びに心を弾ませ 神の家に行こう」(詩篇122)という歌と共に、イスラエルの民はこぞってエルサレムの神殿、神の都に上りました。教会も古くから神への賛美の歌と共に行列が行なわれ、常にこれを大切にしてきました。
ミサ聖祭の初めに、司祭団は荘厳に侍者を伴って入堂し、ミサ聖祭を始めます。ミサ聖祭においては、このほかに「奉納の行列」と「聖体拝領の行列」の二つが行なわれます。この三つの行列は、入祭の儀、奉納の儀、聖体拝領の儀というミサ聖祭の重要な部分で信者の積極的参加をうながし、その間、信者は聖歌をもってこの行列に一致します。
ここで信者の方があまり意識しておられないかもしれませんが、「奉納の行列」について考えてみたいと思います。
ことばの典礼が終わって、感謝の典礼すなわち「奉納の部」が始まると、そそくさと座って、早速バッグを掴み、献金の準備に取り掛かろうとするような人もいるようです。しかし、ここで行なわれる奉納や献金の重大さ、またその行列の意味を十分わきまえることは、ミサ聖祭の本質に積極的に参加する意味からも大切なことだと思います。典礼書の総則には、この点を細かく指摘して、教えてくれています。
『感謝の典礼の初めに、キリストのからだと血になる供えものが祭壇に運ばれる。信者がパンとぶどう酒を奉納することは、ほむべきことである。司祭あるいは助祭が適当な場所でそれを受け取り、定められた祈りのことばを唱えながら祭壇に置く。今は昔のように、信者が典礼のためのパンとぶどう酒を自分の家から持って来ないとしても、この儀式は霊的な効力と意味を保っている。また、貧しい人のためや教会のために信者が持ってくるか、あるいは教会堂内で集めるかした献金または他のささげものも奉納される。それは、感謝の食卓以外の適当な場所に置かれる。』(ローマ・ミサ典礼書の総則 73)
以上の指導にもとづいて、奉納の捧げものは代表者が捧持するとしても、信者個人が自らのものとして意識しながら、奉納の聖歌に心を合わせてお捧げするようにしなければなりません。鷺沼教会の伝統によると、奉納の部の初めにパンとぶどう酒を捧げる行列が行なわれ、その後各自の献金を集められ、それを侍者団が行列をして捧げるようになっています。以上の総則の指導からいくと、この行列には各自は起立して参加するのが適当ではないかと思います。