何時のことからか、毎年の楽しみにしていることがあります。7月のはじめごろ新聞の付録についている、夏の高校野球大会の全出場校とその組み合わせ表をとっておいて、大会が始まると新聞報道に照らし合わせてチェックしていきます。
諸設備と環境が十分整っている学校もあるでしょうが、ほとんどは勉強の傍ら部活に入り、実践練習をする時間よりもほこりの立つ日には水撒き、雨が降っては一輪車で砂を撒き、整地するなどグラウンド整備に時間のかかる、苦しみを耐えながらの出場ではないかと思います。その点、高校生活のエネルギーをこの試合に打ち込んでの闘いは真摯な雰囲気に満ちていて楽しみです。しかし、毎日半数が学校名にフエルトペンの黒い線を引かれながら消えていきます。結果だけを見ても、完全に勝ち目なしの組み合わせで敗退した学校、実力が似通ったところで多分以前にも練習試合で腕試しをした相手かも知れないけど勝運に恵まれず消えていったチーム、負けたとはいえ満足のいく試合を展開して最後の挨拶に望んだであろう部員の姿などがそこに思い浮かばれて来たりします。消されていく一校一校の部員にねぎらいの心と祈りを捧げながらの作業も、この時期のひとつの楽しみです。全国一の激戦県だと名高い神奈川県ですが、今年も195校が名を連ねて、そろそろ甲子園への出場権を得る学校が出てくることでしょう。
将来の不安定な現代にあって、特に若い人たちの不安感は大きなものだと思います。そのような時代に生きながら、少なくとも高校生の時に野球という目標を掴みえた彼らはむしろ幸せかもしれません。時々、大会に臨み、そこに全力でぶっつかって燃え尽きてしまったかのように報じられることがないではありませんが、それでは本当に残念です。表題には「燃える青春」と書きましたが、「燃えつきた青春」であってはなりません。また新たな高い目標を設定し、それを目指して邁進していただきたいと思います。
典礼改革前のミサ聖祭では、司祭は祭壇に上がる前に祭壇下で立ち止まり、侍者と共に回心の祈りをしていました。そのときの詩篇に「わたしは、神の祭壇に上ろう。私の若さを喜びで満たし給う神の方へ。」(詩篇43,4)と唱えました。若さのうちに神の祝福があります。それを心して神の方に高めていかねばなりません。若い時に神の方を目指して歩むことの出来るのは、どれほど幸せでしょう。それこそ「燃える青春」です。