第二バチカン公会議の「司祭の役務と生活に関する教令」という文書に次の言葉が読まれます。「主イエスにおいて、すべての信者は聖なる王的司祭職となり、イエス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、彼らを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせる。それゆえ、からだ全体の使命に参与しない構成員は一つも無いのであって、各構成員は自分の心の中にいるイエスを聖なるものとして扱い、預言の霊によってイエスのあかしをたてなければならない。しかし同じ主は、信者たちが一つのからだに結合するように、信者のある人を役務者に制定した。役務者は人々のためにキリストの名において公に司祭としての務めを行なう。信者の霊的供え物は、司祭の役務を通して、唯一の仲介者であるキリストの供え物との一致のうちに完成するものであり、これは、司祭たちの手によって、全教会の名において、聖体祭儀で血を流すことなく秘跡的にささげられる。司祭の役務はこのことを目ざし、このことにおいて完成する。」(同書2)
この言葉は、司祭団を中心にして、祝っている鷺沼教会の信者一人ひとりにありがたく響いてきます。わたしたち信者が神から召され、福音の喜びに浸りながら、教会共同体として神への供え物を捧げるにあたって、「聖霊の塗油によって特別な霊印を印され、かしらであるキリストの代理者として行動できる」(同書2)司祭がわたしたちのうちにいるということを考えると表題に掲げたゼカリア預言者の言葉(2,14)が口をついて出てきます。
ある修道院の食堂の壁に次の言葉が掲げられていました。「見よ、兄弟のように共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩篇133,1)今日の喜びは正にこの言葉に尽きるでしょう。司祭を中心にして教会共同体の皆が、主キリストに供え物をささげ、それぞれの役割を果たし、助け合い、感謝をささげ、一致して神を賛美し、たたえることが出来るのです。そして、今日はお互いに感謝し、ねぎらいあい、いただいた恵みを分かち合いながら、新たな心で信仰の道を進み行く決意の日なのです。「今日こそ神が造られた日、喜び歌え、この日を共に」(典礼聖歌87)と自然に口ずさみたくなります。
先ほど述べた詩篇の後半は、そこの修道院の額には記していませんでしたが、次のような言葉で締めくくられているのです。「シオンの丘を潤すヘルモンの露のように、神は祝福で満たし、とこしえにいのちを与えられる。」(詩篇133,3)