去る4月3日、教皇ヨハネ・パウロ2世の帰天にあたって、フォコラーレ運動の創始者キアラ・ルッビックさんは全世界のメンバーに向かって次のようなメッセージを送っています。

「よく教皇様との謁見のあと、私はまるで天が開けたかのように、神様との特別な一致を感じました。自分と神様との間には、もう仲介者がいなくなったかのようでした。教皇様は、確かに『仲介者』でおられますが、いったん、わたしたちを神様との一致にみちびいて仲介の役割を果たされると、ご自分は姿を消されます。その時、わたしは教皇様が備えておられるカリスマというものをいっそう深く理解できたように思います。」(フォコラーレ月刊誌「UNO」5月号)

一人の神父様がしみじみ言った言葉が耳に残ります。「教皇様が亡くなって、一番悲しむのは若者だろう。今年のケルンのワールドユースデーはどうなるのだろう。あれほど若者を引き付けておられたのだから。」全世界に飛び、常に若者に接し、若者をひきつけられた教皇様でした。しかし、その秘訣はたぶんここにあったのではないでしょうか。教皇様の病状悪化から、見送りにかけて多くの若者が各地からローマに詰め掛け、その苦しみを共有し、悲しみに沈んでいた姿を多くのマスコミは知らせてくれました。そこではしばしば「教皇様のカリスマ」と言う表現で述べていましたし、キアラさんも「教皇様の備えておられるカリスマというもの」を感じ取ったと言われていますが、これこそ「聖徳」と言うものなのでしょう。

最近、修徳や信仰生活の面でよく耳にし、口にする「福音の証し」とか「キリストの証し」とか言われるものは突き詰めていくならば、上述のキアラさんの体験である(これはすべての人が体験されたことでしょうが)神様に導いたあと、見えなくなってしまう存在でなければならないことなのでしょう。「人間は透明にならなければならない。」と以前聞いたことがあります。事実、故教皇様はそれになりきり、それに生きておられたのでありましょう。それをキアラさんが敏感に感じ取られただけでなく、すべての人、若者までもその実態は掴みきれないまでも、教皇様が具備されていた聖徳の喜びをともにいただくことができたのだと思います。

先に掲げたマタイ5章の山上の垂訓「心の清い人は幸いである」の後半には「その人は神を見るであろう」と続いています。キアラさんの話からすると、心の清い人は自らが神を見るだけでなく、他の人も神を見ることができるように導くのです。これこそ信仰の証しであり、キリストの証しの道にほかなりません。私たちの信仰生活がいかなるものか、いかにあるべきかを故ヨハネ・パウロ2世教皇様の取次ぎを願いながら考えなければなりません。

主任司祭 小坂正一郎
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